市川大百科事典 た 平将門伝説 たいらのまさかどでんせつ

平将門伝説 たいらのまさかどでんせつ

  日本各地に伝わっている、平将門の伝説。市川市内では大野に多い。

 『平将門伝説』(著/村上春樹 汲古書院)では、以下のように10分類されている。なお、著者の村上春樹さんは横浜私立高等学校教員だった人で、作家の村上春樹さんとは別人。


冥界伝説

 将門の冥界における伝説。平安時代に書かれた『将門記(しょうもんき)』によれば、将門は死後に地獄に落ち、責め苦を受けていた。ただ、生前に金光明経を写した功徳で、1カ月の中で一時の休みがあった。そんな消息を、冥界からの使いが田舎の人に伝えた。


調伏伝説

 将門を調伏した際の伝説。将門の反乱が朝廷に伝わり、朝廷は寺社に謀反平定を祈祷させた。調伏によって、さまざまな不思議な現象が起こり、ついに将門が滅びた。

 千葉県成田市の成田山新勝寺は、将門を調伏して滅ぼしたことで知られている。

 市川市大野では、将門自身が成田山と戦ったという言い伝えがある。

 市川市東菅野の山王山不動院は、成田山と同僕の不動尊を勧請して、将門の調伏を行ったという。






将門祭祀伝説

 将門を神として祭祀した伝説。将門を地域の神霊(氏神)として供養する場合と、たたりを恐れて鎮魂を願う場合とが考えられる。

 市川市大野の駒形大神社の神体は、白馬に乗る将門像。


 市川市大和田の甲大(かぶとだい)神社には、将門が敗走した際に落とした兜をまつるという説もある。


王城伝説

 将門が建てた王城の伝説。「新皇」を名乗った後、朝廷のように文武百官を任命し、各地に王城を建設したとされている。

 市川市大野の殿台に出城があり、御門には大手門があって、迎米には倉庫があったと伝えられている。

 また天満天神社は、将門が北野天満宮を勧請したものとされている。

 市川市曽谷の曽谷妙見社は、将門によって創建されたといわれている。


首の伝説

 将門の首の怪異伝説。将門の首は京都でさらされたものの、関東に飛んで行ったなどと伝えられている。

 市川市大野の小さな弁財天祠は「将門様」と呼ばれ、将門の首塚とされている。


鉄身伝説

 鉄身の将門とその弱点の伝説。将門は、中国神話の「蚩尤(しゆう)」という神にたとえられた。蚩尤は銅の頭に鉄の額を持つとされていて、そこから将門も鋼鉄の体(鉄身)を持つという伝説が生まれてきた。その弱点は脳天やこめかみとされていた。


七人将門の伝説

 将門の影武者(分身)伝説など。7人の影武者がいたという伝説がある。

○妙見伝説

 7人の影武者がいたという伝説は、北極星や北斗七星を神格化っした「妙見信仰」から生まれたとも考えられる。

○桔梗伝説

 将門の妾の桔梗が、敵方の藤原秀郷と内通して、将門の弱点を教えてしまう。そのために将門は滅ぼされ、桔梗も非業の死を遂げる。

 市川市菅野には、御代院という女性が将門の妾になり、藤原秀郷の弱点を教えたという言い伝えがある。


東西呼応の伝説

 将門・純友共謀伝説。東国で将門が乱を起こした頃と同時期に、西国では藤原純友(ふじわらのすみとも)が瀬戸内の海賊を率いて乱を起こした。この2つの乱は「承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱」と呼ばれている。東西で通じ合い、呼応して乱を起こしたと伝えられた。


親族の伝説

 両親や兄弟、子どもといった親族にもさまざまな伝説がある。


追討者の伝説

 藤原秀郷、源経基は、将門を追悼した人物として知られている。

 市川市八幡の八幡の藪知らず(不知八幡森〈しらずやわたのもり〉)は、平貞盛が将門を攻めるときに、八門遁甲の陣を敷いたため、ここに入ると出られないという言い伝えがある。また、将門の6人の遺臣がここに入って、土偶になったともいう。

参考資料

  • 『平将門伝説』(著/村上春樹 汲古書院)

    森 真希 2022/08/12


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