市川 芸妓ものがたり 4 ~芸妓はどこへ消えたのか
市川で途絶えてしまった芸妓文化。
記録が残っていないものかと、市川市中央図書館に向かいました。しかし、古墳と手児奈、日本軍(陸軍)の資料は多いものの、芸妓についてはまったく見つかりませんでした。
割烹旅館の鴻月の資料については、ファイルにモノクロプリントが1枚。その内容は、以下のとおりでした。
○大正12年、根岸(東京都台東区)にあった「しおばら」を江戸川の川べりに移築
○豊島園のような遊園地を作ろうという意図で、大正14年に里見八景園が開園
○財政難で里見八景園が閉園した後も、鴻月は営業継続
○建設省からの通達で営業終了(江戸川の護岸工事のため)
○昭和51年10月23日に「さよなら鴻月の集い」が開催
記述でおかしな点があります。ウィキペディアによると豊島園の開園は1926年(大正15年)でした。だとしたら、里見八景園が豊島園よりも先に開園しているため、時系列がおかしくなってしまうのです。
図書館にあったプリントの作成者は、いったい誰なのでしょうか?
ちなみに、明治から大正にかけては、芸妓は今のアイドルのような存在だったようです。写真が絵葉書に使われて、よく売れたのだとか。
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赤坂春本万龍(加野十次郎著『日本名妓花く良べ 第1集』 便利堂、1908年10月刊より) 国立国会図書館デジタルコレクション |
東京の花柳界については、最盛期は昭和初期とのこと。
1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終わった後、1955〜57年(昭和30~32年)には神武景気、1958〜61年(昭和33~36年)には岩戸景気など好景気が続いて、花街も繁盛したものの、時代の流れとともに料亭よりもバーやクラブが好まれるようになったようです。
こうして、全国規模で多くの花街が廃業したのだそうです。市川もその一つだったのでしょう。
□参考資料
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