「鏡石の由来」の勝手な解釈

 京成電鉄市川真間駅の南口付近に「鏡石」があります。


看板の下の「鏡石」

 その看板の文章について、以下のように解釈しました。

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 今は暗渠になっていますが、以前はじゅんさい池から始まって国分川までつながっている「平川用水路」がありました。

 平川用水路と、弘法寺と国分寺を結ぶ道が交差するところに、「石橋」がかかっていました。石橋の近くに「鏡石」があったのです。
石橋があったと推測できる場所

弘法寺と国分寺を結ぶ道

レトロ標識
石橋の名残の「石橋上公園」

 1836年(天保7年)に出版された『江戸名所図会』によると、川の中に鏡石があって、石は奥深くまで埋まっているために「要石」とも呼ばれていたようです。
 しかし、地中に深く埋まっていたのならば、動かせないはずです。今は市川真間駅の近くにあるので、要石とは考えにくいですね。

『江戸名所図会』

 実は鏡石の近くには、「夫婦石」があったという言い伝えが残っています。
 今の鏡石は、夫婦石の女性のほうではないかとも考えられます。

 ただ、夫婦石も動かしてはいけないといわれていたみたいで、実際のところ、この石はいったい何なんでしょうね。
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 このような石にわざわざ看板を立てるのも、やはり、石に魅かれる私たち人間のカルマでしょうか。

 もう一つ、写真ではわかりにくいのですが、石のくぼみの水たまりに、小銭が投げ入れられています。これはあちこちで見かけたのですが、どんな意味があるのでしょうね。鎌倉の銭洗弁財天宇賀福神社(ぜにあらいべんざいてんうがふくじんじゃ、銭洗弁天)でお金を洗ったことがありますが、「水でお金を浄化して、金運アップ」という言い伝えのようなものがあるのかもしれません。


□追記 2020年11月25日
 この鏡石はイミテーションで、元々あった場所から掘り出された石は紛失したと『聞き書き 資料編 市川市国分周辺の変遷』(著/松岡博子)と書かれています。明治34年生まれの井上千輿次さんの談話です。
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終戦後、国府台の大工が他の人と田んぼを取り換えて、石をほじくり上げたところ、案外小さいのだよ。青っぽい、土台石にするくらいの石が三つか四つあった。
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 ということは、『江戸名所図会』を見ながら鏡石のイミテーションを作り、元の場所とはまったく違う京成本線の線路脇に置いて、わざわざ由来を書いた看板も立てたわけです。
 何のためやら……



 
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