秣川(まぐさがわ)と馬と江戸川放水路
200mほどの秣川の流域では、「秣(まぐさ)」つまり牛や馬に与える飼料(飼葉〈かいば)〉は取れませんでした。
しかし、わざわざ秣川と名づけたのには、理由があるはずです。
明治には秣川はなく、水田とナシ畑でした。地図に登場するのは、1916(大正5)~1919(大正8)年の江戸川放水路工事の最中です。
○ 幅3m・長さ200mなのに一級河川の秣川(まぐさがわ)
当時は、建設機械やトラックはありませんでした。ですから、土木工事には人と馬の力が使われていたのです。
江戸川放水路と同時期に開削された荒川放水路については、最初に人や馬の力で高水敷(こうすいじき、河川敷)が掘られ、その後、浚渫船を使って東京湾から低水路が掘られました。
江戸川放水路の開削も同じ工程で進んだはずです。
明治から大正にかけて、人権という意識はかなり低く、ましてや動物愛護など世間一般では考えられていなかったと思われます。
あくまでも推測ですが、江戸川放水路の開削には、近隣の村から作業員が動員され、農耕のために飼われていた馬が接収されたのでしょう。
現在の大和田には、「馬頭観世音(ばとうかんぜおん)」があります。
○土木工事 今昔 ~行徳橋
工事で働かされている馬の飼料を運ぶために掘られた水路が秣川だったと考えられます。飼料は別の場所から、やはり水路で秣川へ、そして秣川から江戸川を経て、馬のところまで運ばれたのかもしれません。
当時の馬の飼料は、米麦糠、麦類、乾草などだったとのこと。
秣川の名前の由来。それは、江戸川放水路開削工事で、運搬などのために働いていた馬の飼料を運んでいたから。
現時点では、そのように推測しています。
■主な参考資料
荒川放水路変遷誌
データベース『えひめの記憶』愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)四 流通飼料の概要


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