江戸川放水路が竣工しても、38年間は上流から水は流れていなかったのか問題
江戸川について、古い地図を見ながら、不思議に思うことがありました。
1919(大正8)年に、江戸川放水路は竣工したとされています。
しかし、昭和に入ってからも、上流と下流がつながっていないのです。
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| 昭和22年土地利用図 出典:5 むかしのようす(建設の経過)|市川市自然博物館 |
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| 昭和22年土地利用図 出典:暮らしの水を守る|江戸川河川事務所 |
行徳橋のところで、江戸川放水路は分断されているというか、つながっていません。ここで何をしているのかというと、行徳可動堰の工事中でした。
江戸川放水路は、1919(大正8)年に竣工したものの、上流の川の水が流れることになったのは行徳可動堰竣工の後ということになります。その間の38年は、何をしていたのでしょうか。
江戸川改修工事の歴史
1916(大正5)年 江戸川放水路竣工
1919(大正8)年 江戸川放水路竣工
1920(大正9)年 放水路床固(とこがため)竣工
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| 江戸川放水路床固工事 出典:江戸川改修100周年 |
水の流れで川底や堤防などの土砂が削り取られ、流されてしまいます(洗掘)。これを防いで川底の傾きを安定させるために、川を横断して設けられる施設が床固です。「床止」ともいわれています。
1922(大正11)年 行徳橋竣工
1927(昭和2)年 江戸川橋(現在は市川橋)竣工
1936(昭和11)年 江戸川水門(篠崎水門)・閘門着工
1941(昭和16)年 放水路床固改造工事完了、低水路修築ほぼ完了
1943(昭和18)年 江戸川水門・閘門竣工
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| 通水前の江戸川水閘門 出典:江戸川改修100周年パンフレット |
1950(昭和25)年 行徳可動堰着工
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| 行徳可動堰工事中写真 出典:暮らしの水を守る|江戸川河川事務所 |
1957(昭和32)年 行徳可動堰竣工
江戸川放水路竣工というのは、「開削工事が終わった状態」「巨大な溝が掘られた状態」で、水が通るかどうかはまた別の話でした。
■主な参考資料
第3節 東京低地と利根川の改変
第3節 東京低地と利根川の改変■近代の河川改修と放水路 :江戸川の改修工事明治43(1910)年の洪水後、計画高水流量注釈1は、利根川が3570㎥/分から5570㎥/分へ、江戸川が970㎥/分から2230㎥/分へと大幅に変更された。翌年に始まった改修工事では、天保年間(1830〜1844)以降、利根川と江戸川が分かれる地点の江戸川流頭部にあった棒出し注釈2を取り払い、水門・閘門注釈3・床固め注釈4の設置を行った。下流では、大正5(1916)年に延長3㎞の江戸川放水路を開削する工事が始まり、大正8(1919)年に完成した。大正6(1917)年12月3日からは金町築堤工事が着手された。この改修で、かつて関所が置かれた金町御関所町では、大規模な堤防の拡張で旧関所役人宅が移転し、 鷲神社も下流にあたる葛西神社(現東金町6丁目)に移された。また、葛西神社内でも、この改修で富士塚が現在地へ移転している。大正14(1925)年9月には葛飾橋の建設が始まり、昭和2(1927)年4月に完成した。江戸川堤の桜は、明治37(1904)年に金町村によって、左右3間(約5.4m)間隔で長さ3000間(約5454m)にわたり2000本が植樹されたもので、多くの人々でにぎわった。河川改修前後の絵葉書や浮世絵を見ると、川と共に生活していた当時の景観を見ることができる。なお、この改修で、 縄文海進の名残りであった国府台・柴又付近の低水路にあった岩盤(海食崖)が取り除かれている。








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