【 月梅(ゆーめい)ZINE】 コンテンツ案2 第1章 なぜ「ねぎラーメン」ではなく「ねぎそば」なのか?
日本のラーメンは、「南京そば」がルーツと紹介されている場合が多いようです。
1871(明治4)年に日清修好条規が結ばれて、横浜には清国領事館が開設され、「外国人居留地」が設けられました。外国人居留地とは、明治政府が外国人の居留および交易区域として定めた地域で、外国人は法的承認と領事による保護を得られます
『ラーメンと愛国』(著/速水健朗 講談社)では、明治(1868~1912年)の中期に、外国人居留地の屋台料理として「南京そば」という名前でラーメンが売られていたとのこと。
また、慶應義塾大学文学部の岩間一弘教授によれば、南京そばが日本の印刷物に初めて登場したのは、1884(明治17)年、函館の外国人居留地にあった「養和軒」という洋食屋の広告だとされているようです。この南京そばは、清の料理人が作った鶏汁そばとのこと。
南京は、江戸時代初期に当たる1644年に滅亡した、漢族の最後の王朝である明の首都でした。明への敬意と憧憬で「南京」が使われていたのではないかと、岩間教授は述べていました。
1899(明治32)年の治外法権・外国人居留地の撤廃、内地雑居の許可で、南京そばは日本各地へと広がりました。
1894(明治27)~1895(明治28)年には日清戦争、1904(明治37)~1905(明治38)年には日露戦争がありました。
中国に対する「支那」という呼び方は、 Wikipediaでは、遅くとも平安時代までに、仏典で日本に入ってきていました。支那は、インドから見て東のほうの地域を指していたようです。支那のニュアンスが変わってきたのは、日清戦争の前後のようです。
日本人が、日本人好みのラーメンを作って提供する転機とされているのが、1910(明治43)年に、東京の浅草でオープンした来々軒という中華料理店です。来々軒の創始者である尾崎貫一は、横浜税関の職員でした。
来々軒では「支那そば」という名前で、ラーメンが提供されていました。多い日には、1日で3000杯を提供したほど、繁盛したそうです。
のぼりには支那御料理と書かれ(中略)シナソバ六銭、ワンタン六銭とあり、関東料理を商っていたようです。(中略)支那そばのスープは鶏や豚の元からとるものを使い、醤油味でそばだしに似ていました。
『進化する麵食文化』(著:奥村彪生 監修:安藤百福 フーディアム・コミュニケーション)
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1915年に撮影された来々軒(出典:新横浜ラーメン博物館 ) |
1911(明治44)年の辛亥革命で、中華民国が誕生します。その2年後の1913(大正2)年に日本政府は、条約や国書を除いて中国を「支那」と呼ぶことを閣議決定しました。
なお、軍閥が入り乱れる動乱状態に陥っていた中華民国では、1921(大正9)年7月に中国共産党が結党します。
ロシアでは、日露戦争の後でロシア内戦が起こり、1917(大正5年)年にマルクス主義者による十月革命が起きました。ロシア内戦中の1920(大正9)年に、日本人統治状態にあったニコラエフスク(尼港)で、赤軍パルチザン(共産主義のゲリラ部隊)によって大規模な住民虐殺事件が起こりました。
この尼港事件で、山東出身の料理人(王文彩)がニコラエフスクから札幌に逃げてきます。それがきっかけで、1922(大正11)年に「支那料理竹家」がオープンし、その麺料理は「ラーメン」と命名されたのだそうです。
こうした経緯があり、札幌では「ラーメン」という呼び名が一般的になっていたとされています。ただ、この地域だけのローカルな言葉でした。
支那そばについては、小説家の江戸川乱歩も、結婚する前に「支那ソバ屋」をやっていました。
隆子が旅ができるようになって、兄につれられて上京し、団子坂の店へきたのは、折あしく支那ソバ屋をやっている最中であった。着物といえばボロのカーキ服ただ一着、ほかの着物や服は皆質入れし、蒲団まで質屋へ持って行って、借り蒲団をしている状態だった。だから、隆子の持って来た衣類なども、次々と質入れするという始末で、生真面目な彼女は全く驚愕してしまった。それでも里へ帰りはしなかった。なにかしら私の進歩的に見える思想に魅されていたからであろう。これぎりの男でないと信じていたからであろう。
1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生し、横浜にいた中国料理人が流出。そのため、日本各地に支那そばが広まっていきました。『進化する麵食文化』(著:奥村彪生 監修:安藤百福 フーディアム・コミュニケーション)には、次のように書かれていました。
『文化麵類学 麵談』にも、関東大震災のころには、支那そばが屋台で商われていたとあります。
関東大震災で、廃墟の街となった東京には、 支那そばの屋台が増え、チャルメラを吹きながら街を流しました。
大正には、移動屋台による支那そば屋が存在していました。当時の支那そばの捉え方は以下のようなものだったと『ラーメンと愛国』には書かれています。今とはかなり異なります。
「都市下層民」が「深夜飲食の楽しみ」として「娯楽的」に食していたもの、もしくは、深夜労働者たちが安価な夜食として食していたもの
1928(昭和3)年頃には、首都圏で支那そば製造業者の労働組合が設立されました。それほど、支那そば屋が増えたのです。
東京などで高まった「支那そば」の需要が浮き彫りにしていたのは、田舎から仕事や学校のために大量に人口が流入した結果として、食習慣の細分化と夜間化が強まりつつあったことだ。経済発展にともなって加速する細分化は、「支那そば」が広まっていくときに起こっていた新たな食習慣の質的変化だった。
『ラーメンの語られざる歴史』(著:ジョージ・ソルト 図書刊行会)
1928(昭和3)年、東京・上野の「翠松閣」の日本人料理長・吉田誠一が、『美味しく経済的な支那料理の拵え方』(博文館)を刊行し、日本の料理書として初めて「拉麵(ラーメン)」を掲載しました。なお、日本語のラーメンの語源は、この山東式「拉麵」ではなく、広東系の細い汁麵である「柳麵(ラウミン)」であるとする説が有力とのこと。
また、『支那料理の研究』、『素人に出来る支那料理』、『家庭向き支那料理』など、昭和の初めには、主婦層を対象にした中国料理のレシピ本が多数出版されました。
一方、日中関係は悪化していきました。1931(昭和6)年に満洲事変が起こり、1937(昭和12)年の盧溝橋事件がきっかけで日中戦争に突入します。日中関係の悪化で、「支那」には侮蔑的な意味が伴うようになったのでしょうか。
太平洋戦争(1941~1945〈昭和16~20〉年)の前は、ラーメン(支那そば)は一般的には食べられていなかったそうです。
ラーメンが大衆食になるきっかけは、戦後の闇市です。終戦翌年に、呼び名が「支那そば」から「中華そば」になりました。「支那」という言葉のニュアンスの関係です。
戦後は食糧難が国民を苦しめました。植民地だった朝鮮と台湾からの米の輸入が停止したほか、1944(昭和21)~1945(昭和22)年に不作が続いたからです。米の配給量は減り、また、闇市では米が高値で取引されていました。
そんな米に比べると、小麦粉は手に入りやすかったのです。1948(昭和23)年には、アメリカ政府が日本経済再計画の一環として、大量の小麦を輸出し始めました。
同じ頃、中国からの引揚者によって、中華そばの屋台が増加しました。
終戦。戦前より食糧難で、戦地から引き揚げてこられた人たちで、戦前より人口が増え、田舎の農家への買い出し、焼け跡にはヤミ市が立ち、雑炊やすいとんが売られ、長い行列ができました。なんでもよい、とにかく腹を満たしたいというのが、市民、いや多くの人々の願いでした。
都市では引き揚げてこられた方々の中には屋台で餃子や支那そば(のちに中華そばに変わる)を売る人も増え、その屋台にも行列ができました。
『進化する麵食文化』(著:奥村彪生 監修:安藤百福 フーディアム・コミュニケーション)
戦後のアメリカは、国内では小麦が供給過剰で余っている状況でした。
さらに、日本を経済復興させて共産主義の高まりを回避するため、アメリカの小麦粉が日本に流入したのです。なお、日本政府は、アメリカから受け取った食糧や移送の燃料費などを、アメリカに支払っています。
対日経済援助[アメリカ合衆国]第2次世界大戦後の占領期間中にアメリカが日本に供与した経済援助。援助は,(1) ガリオア・エロア物資 占領地救済資金に基づく援助で食糧や医薬品など,(2) 米軍払下げ物資 米軍各部隊から放出された食糧,資材など,(3) 余剰報償物資 重要産業の労働者に生産意欲を高める目的で配給された衣類,医薬品などの3種類で,総額は約 19億 5000万ドル (アメリカ側の計算) に達した。これらの援助の債務性をめぐって日本国内に大いに議論があったが,結局日本政府は 1962年に締結した「戦後の経済援助の処理に関する日米協定」により,4億 9000万ドルを期間 15年,年利 2.5%でアメリカに支払うこととなった。
日本では、学校給食はパン食がメインとなりました。また闇市では、すいとん、うどんや中華そばが作られました。
犯罪が絡むため、どうしても正確な量は確定できないが、アメリカ占領時に輸入された大量の小麦が行き着く先は闇市のラーメン露店だった。
東京などの大都市の闇市では、日本人引き揚げ者だけでなく、多くの朝鮮人と中国人が裏社会のギャングの下で行商人として「中華そば」を売っていた。
日本人のほとんどが体験した一九四四年から一九四七年までの全国民的な飢餓という苦しい背景があったからこそ、ラーメン復活は戦争で生き残った都市住民に大きな影響を与えた。闇市のラーメンなど「スタミナ」のつく食べ物は、それまでずっと食べていたサツマイモや大根に代わるもの、また飢餓状態を脱するものとして歓迎された。輸入アメリカ小麦でつくられた餃子や焼きそば、食欲をそそる匂いのネギ入りお好み焼きなどと並んで、「中華そば」は闇市の名物であり、人々が必要な力を奮い立たせるためにどうにか買える食べ物だった。
『ラーメンの語られざる歴史』(著:ジョージ・ソルト 図書刊行会)※太字はクラナリ
1950(昭和25)年には小麦の統制が解除され、中華そば屋が増えます。理由は、「素人でも簡単に商いができたから」と『進化する麵食文化』には書かれていました。料理道具や屋台などをセットで貸し出す業者がいたのだそうです。
1960年代までは「そば」というと「中華そば」のことを指すことも多く、それに伴って「日本そば」という言い方もできました。
しかし今では、「そば」といえば日本そばです。1960年代に何があったのでしょうか。
「中華そば」から「ラーメン」へと呼び方が変わったきっかけの一つとして、「チキンラーメン」の影響がネット上でよく挙げられています。
1958(昭和33)年にチキンラーメンが誕生しました。サンシー殖産(現在は日清食品)の安藤百福が、大阪の闇市で中華そば屋に並ぶ人々の光景を見たことが、開発のきっかけです。チキンラーメンは爆発的な人気を呼び、同時期に普及し始めたテレビでCMが流れた相乗効果で、「ラーメン」という言葉が定着しました。
日本の高度成長期に、出稼ぎで東京にやってきた労働者など若い男性の胃袋を満たしたのが、ラーメンでした。
今も市川のラーメン好きの間で語り継がれる「名代ねぎそば月梅」の開店は1953(昭和28)年でした。当時の店名は「中華定食 月梅(ゆえめい)飯店」です。もやしとネギを載せた湯麺を提供していましたが、ネギだけにしてほしいという客が多かったのです。そうした客が「ねぎそば」と注文したことから、店主は湯麺に改良を加えて、主力メニューをねぎそばにしました。
ラーメンが定着する前に、月梅のねぎそばが生まれたのだと考えられます。
■主な参考資料支那そば、中華そばでは不正解…日本で最初の「ラーメン」はなんと呼ばれていたかそして誰がラーメンと名付けたのか
第1章 ラーメン物語 愛知大学 01E2171 牛田 幸
『月刊食堂』1992年5月号
外務省記録「各国国名及地名称呼関係雑件」のなかに、1930年(昭和5年)10月に、浜口雄幸内閣が中国の呼称を常則として「中華民国」とするとの閣議決定を行った際の記録が残されています。 この閣議決定が行われるまで、日本政府は、条約や国書を除いて中国を「支那」と呼称するとの閣議決定(1913年6月)に基づき、中国の呼称として通例「支那」を使用していました。しかし、中国は侮蔑的なニュアンスの強い「支那」という呼称を好まず、「中華民国」を用いるよう求めていました。たとえば、中国国民政府文書局長であった楊煕績は、1930年5月に日本と中国との間で結ばれた関税協定において、日本が条文中に「支那」という字句を使用した事を批判し、「今後日本側カ重ネテ斯ノ如キ無礼ノ字句ヲ使用スルトキハ我方ハ之ヲ返附スルト共ニ厳シク詰責シ以テ国家ヲ辱シメサルコトヲ期スヘシ」と論じていました。 こうした中国官民の感情に配慮して、外務省は1930年10月27日に中国の呼称変更を閣議に請議し、同月30日に閣議決定となりました。
農林水産省 ラーメンの歴史と現在
新横浜ラーメン博物館
日本化する叉焼-我が国における叉焼の受容と変容-
■おまけ かんすいについては、以下のような説明もありました。
日本大百科全書(ニッポニカ) 梘水かんすい
中華麺(めん)をつくるときに用いるアルカリ性の水のこと。鹹水、乾水、漢水などとも書く。小麦粉をこねるとき梘水を使うと、アルカリ性によってグルテンがよく形成され、粘弾性が増し、食感をよくする。また伸展性も増す。アルカリ性になるため、小麦粉の色素(フラボノイド)は、中華麺独特の黄色に発色する。梘水は食品衛生法により食品添加物に指定されており、とくに検定が必要と定められている。元来は天然に産するものを用いていたが、現在は炭酸ナトリウム、炭酸カリウムなどの薬品を水に溶かした人工の梘水が用いられている。天然産のものは採取場所によってその成分は異なるが、主成分は炭酸カリウム、炭酸ナトリウムである。[河野友美・山口米子]
デジタル大辞泉 かん‐すい【×梘水】中華そばを作るとき、粉にまぜる炭酸カリウムなどの溶液。粘弾性を増し、独特の色と香りをつける。食品添加物の一。
日本国語大辞典かん‐すい〘 名詞 〙 中華そばなどの製造に用いる炭酸水。
外務省記録「各国国名及地名称呼関係雑件」のなかに、1930年(昭和5年)10月に、浜口雄幸内閣が中国の呼称を常則として「中華民国」とするとの閣議決定を行った際の記録が残されています。
この閣議決定が行われるまで、日本政府は、条約や国書を除いて中国を「支那」と呼称するとの閣議決定(1913年6月)に基づき、中国の呼称として通例「支那」を使用していました。しかし、中国は侮蔑的なニュアンスの強い「支那」という呼称を好まず、「中華民国」を用いるよう求めていました。たとえば、中国国民政府文書局長であった楊煕績は、1930年5月に日本と中国との間で結ばれた関税協定において、日本が条文中に「支那」という字句を使用した事を批判し、「今後日本側カ重ネテ斯ノ如キ無礼ノ字句ヲ使用スルトキハ我方ハ之ヲ返附スルト共ニ厳シク詰責シ以テ国家ヲ辱シメサルコトヲ期スヘシ」と論じていました。
こうした中国官民の感情に配慮して、外務省は1930年10月27日に中国の呼称変更を閣議に請議し、同月30日に閣議決定となりました。
かんすいについては、以下のような説明もありました。
日本大百科全書(ニッポニカ)
梘水かんすい中華麺(めん)をつくるときに用いるアルカリ性の水のこと。鹹水、乾水、漢水などとも書く。小麦粉をこねるとき梘水を使うと、アルカリ性によってグルテンがよく形成され、粘弾性が増し、食感をよくする。また伸展性も増す。アルカリ性になるため、小麦粉の色素(フラボノイド)は、中華麺独特の黄色に発色する。梘水は食品衛生法により食品添加物に指定されており、とくに検定が必要と定められている。元来は天然に産するものを用いていたが、現在は炭酸ナトリウム、炭酸カリウムなどの薬品を水に溶かした人工の梘水が用いられている。天然産のものは採取場所によってその成分は異なるが、主成分は炭酸カリウム、炭酸ナトリウムである。[河野友美・山口米子]
デジタル大辞泉
かん‐すい【×梘水】中華そばを作るとき、粉にまぜる炭酸カリウムなどの溶液。粘弾性を増し、独特の色と香りをつける。食品添加物の一。
日本国語大辞典
かん‐すい〘 名詞 〙 中華そばなどの製造に用いる炭酸水。

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