論理的に考えたところで得にも徳にもならないし、正しさにもつながらない 『論より詭弁―反論理的思考のすすめ』
みなさん、いままで論理的に考えてきて、何かトクしたことありますか?
あまり思い出したくはないのですが、大学を卒業して就職したばかりの頃、職場でドヤ顔と疑問・不満の表情を繰り返していました。
「どうや、こっちのほうが正しいやろ」
「え? 論理的に正しいのに、なんで無視?」
一生懸命に論理を組み立てて、ドヤ顔で発言しても、職場では相手にされないことが多かったのです。
飲み会のときには、学生時代の友人たちも同じ不満を口にしていました。会社の中では、“正しさ”がまかり通らないと。
「正しいのに、なんで?」という疑問に対し、『論より詭弁―反論理的思考のすすめ』(著/香西秀信 光文社)は、ずばりと答えを出してくれました。
弱者の甘え以外の何ものでもない
学校生活の中では、論理が重視されてきました。「真空状態で純粋培養された論理的思考力」が“正しさ”を導き出し、“正しさ”がまかり通ると信じ込んでいたようにも思えます。
しかし、社会に出ると、“正しさ”が認められないばかりか、煙たがられ、できない奴と評価され、みんながやりたがらない仕事を押し付けられたわけです。
新人いじめだと、恨みに思ったこともあったなあ……
この状態に陥った理由は簡単。新入社員という弱者が、対等な立場ではない強者に対して、「“正しさ”を論理的に主張さえすれば、自分の意見が通る」という甘ったれた考えを抱いていたからです。
ああ、あの頃の自分が恥ずかしい……
習い性なのでしょうか、悲しいことに今でも“正しさ”を振りかざし、「なんで?」「なんで?」と不満を漏らすことがあります。そんなときには、本書の次の言葉を思い出そうと思います。
もし人が非論理的な判断をして、それで痛くも痒くもないというのであれば、そのときは論理的思考の方が何か大きな間違いを犯しているのである。
社会では論理よりも常識が優先されるのである。
今回は、『論より詭弁―反論理的思考のすすめ』から引用しながら、実生活での「反論理的思考」の効用について検討したいと思います。
まず、大前提として、「人間は対等な関係ではない」という点が挙げられます。強者と弱者、決定権を持つ者と持たない者がいるのです。
そして、強者・決定権を持つ者には、論理なんてものは不要ということです。
論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である。強者には、そんなものは要らない。いわゆる議論のルールなど、弱者の甘え以外の何ものでもない。(中略)そのような悲鳴にすぎないものを、偉そうに、勝ち誇って告げるのも、また弱者の特徴である。
人間の世界では、その多くの場合において力関係は不均等であるのに、それを認めようとせず、自分も強者の立場にあれば当然試みるであろう力の行使を、さも不正な手段を用いるがごとく言い立てるのである。だが、力関係が対等でない者の間で、そもそも対等な議論が成り立つのだろうか。(中略)例えば、ある会社の入社試験の面接で、人事担当者と受験者が、その会社の製品のCM内容をめぐって議論になった。人事担当者は議論を打ち切り、「これはわが社の方針なのだから、それに従えないのなら入社は諦めてもらう」と宣言した。これに対し、大学でディベートで鍛えあげたその受験者は、相手の非論理的思考を非難し 、こう金切り声をあげた。「それは虚偽だ、詭弁だ、『力に訴える議論』だ! 事柄の是非を突き詰めて議論せずに脅迫で自分の意思を通そうとするのは思考の停止だ!」―もちろん 、人事担当者は、「ああ、詭弁で結構だ」と、彼を退室させようとするだろう。少なくとも私ならそうする。
私は、論理的思考の研究と教育に、多少は関わってきた人間である。その私が、なぜ論理的思考にこんな憎まれ口ばかりきくのかといえば、それが、論者間の人間関係を考慮の埒外において成立しているように見えるからである。あるいは(結局は同じことなのであるが)、対等の人間関係というものを前提として成り立っているように思えるからである。だが、われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手との人間関係は対等ではない。われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては、真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分には機能しない。が、その十分に機能をしないことを、相手が詭弁を用いたからだと勘違いしてはいけない。
強者・決定権を持つ者には論理が不要ならば、彼らに何を話しても無駄なのかというと、そうではありません。弱者が提案などをする場合には、「このやり方のほうが正しい!」と言い募るよりも、「こうしませんか」と説得するほうが効果的なのです。
私の専門とするレトリックは、心理の追求でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。このために、レトリックは、古来より非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。
また、強者・決定権を持つ者が、いつでも、どこでも固定されているわけではありません。立場が入れ替わったり、別の枠組みで無効になったりするということです。
しかし、ここで忘れてはならないのは、われわれの立場の強弱は、それぞれの場によっていくらでも変化するということである。
それから、「正しい」認識であっても、役に立たなかったりメリットがなかったりする場合には、意味はなさそうです。むしろ、その「正しい」認識が間違っている可能性もあるでしょう。
議論においても、論理的な思考によっていくら「正しい」認識が得られたとしても、それだけでは十分に用を足すことはできない。
もし人が非論理的な判断をして、それで痛くも痒くもないというのであれば、そのときは論理的思考の方が何か大きな間違いを犯しているのである。
一見誤りであること、誤っているように見えること、間違っていそうなこと、そこに正しいものを見出せることもまた真の思想家の条件の一つである。
ところで、昭和の頃、公共性・中立性を標榜しているメディアを、ジャーナリストがこき下ろしていました。メディアといっても、中身は人間の集まりです。そして人間が扱う情報には、必ずバイアスがかかるのです。そのため、公共性・中立性なんて、はなから無理な話なのです。もちろん努力目標に掲げることはできますが、「徹頭徹尾、私は中立です」だなんて言い切ってしまうほうが胡散臭くなるわけですね。
それに、並列にある物事を説明する際には、必ず順序が生じます。例えば、『クラナリ』編集人を説明する際には、次の2とおりの表現ができます。
1 あの人はフリーランスで、書籍編集の仕事をしている。
2 あの人は書籍編集の仕事をしているが、フリーランスだ。
意味は同じですが、どのような順番で説明するか、そしてつなぐ言葉に「~だが」を用いるかどうかで、ニュアンスが異なってきます。
また、職に就いていない既婚女性の肩書きを「無職」にするか、「主婦」にするかで、やはりニュアンスが異なってきます。
「順序」や「連結」の例で説明したように、ごく普通に言葉を使っているつもりのときでも、われわれはほとんど詭弁と違わないことをやっている。(中略)われわれは、表現しようとする対象を、ある程度は自由に「名づけ」ることができる。そしてその程度が度を越したとき、われわれはそれを詭弁とののしるのである。
話を議論に戻すと、問いにはアンカリング効果があります。こちらを誘導しようとしたり、変な前提条件が付いていたりする質問は珍しくありません。「クラナリさん、もうインチキな記事は書いていないんですよね?」という問いには、「クラナリは過去にインチキな記事を書いてきた」という意味が含まれています。この問いに「はい」と答えると、インチキな記事を書いた経験があることになってしまいます。「いいえ」と答えると、現在進行形でインチキな記事を書いていることになります。「はい」と答えても「いいえ」と答えても、『クラナリ』編集人にとっては不利なのです。
議論において、問いを出す側は、問いを構成する言葉を自分に都合よく選ぶことができるという特権をもっている。(中略)だから、答える側は、よほど用心しないと、相手が選んだその言葉に合わせて、問いに答えさせられる羽目になってしまう。
日常的な議論の場で、われわれは、しばしば相手に問い詰められ、絶句してしまうことがある。が、これは必ずしも相手の主張が正しことを意味しない。多くは、その問いが相手にとって都合のいい言葉で組み立てられていることを失念し、馬鹿正直に答えてしまうことからくるのである。
国家に人を殺す権利があるのか?
こういうときは、こちらも都合のいい言葉でその問いを表現しなおすといい。
国家に、複数の殺人を犯した人間に対し、裁判によって死を与える権利はあるか?
問いに加えて、言葉の定義や規準の明示を要求についても、馬鹿常識に応じずに、例えば「あなたが思っている定義と同じだと思ってもらってかまいませんよ」などと答えればいいようです。まったくもって、論理的ではありません。
また、有利か不利かで論理的にふるまうかどうかを判断するといいと、筆者は述べていました。
言葉の定義や規準の明示を要求することは、それだけを見れば、十分に正当で、論理的な行為である。相手が使った言葉について、その意味や使い方がわからないと言い、それについての正確な説明を求める。この行為のどこにも、非難すべきところはない。問題は、こうした正当な定義の要求と、相手を引っ掛けるための定義の要求とが、外見上はまったく区別がつかないことである。邪悪な動機は、もちろん外からは見えず、ただこちらの推測にすぎない。ある意味では、根拠のない決めつけである。しかし私は、議論の流れによって自分がそう感じたのであれば、証拠もなく決めつけてもかまわないと思っている。こちらを混乱させるために定義を求めているのだと思えば、まともに答えず、突き放せばいい。「あなたの使っている○○という言葉を定義せよ」などと詰め寄られたら、木で鼻をくくるように「あなたの○○の使い方と同じだと思ってくれてかまわない」とでも答えればいいのだ。もし使い方に違いがあれば、それを説明するのは相手の責任になる。
こうしたやり方は、もちろん論理的には邪道で、ルール違反と言われても仕方がない。しかし、論理的であろうとすることが、しばしば正直者が馬鹿を見る結果になる。相手の意図などわからないのだからと、定義の要求に馬鹿正直に応じ、その結果散々に論破され立ち往生する。いつでも論理的に振る舞おうとするから、論理を悪用する口先だけの人間をのさばらせてしまうのだ。われわれが論理的であるのは、論理的でないことがわれわれにとって不利になるときだけでいい。
社会では論理よりも常識が優先されるのである。
通常、「質問に質問で返してはいけません!」などといわれますが、筆者は「返してよい」としています。むしろ、「はい」か「いいえ」で答えるのは馬鹿だと。
以下の引用にある「不当予断の問い」については、相手が思わず答えることで、立証責任を相手に押し付ける問いです。
そもそも、「不当予断の問い」に、馬鹿正直に答える人などいるわけがない。言語学者のラス・マナーが、〈question〉に対応するものとして、〈answer〉以外に、〈retort〉(言い返し)という用語を立てている。例えば、「はい」か「いいえ」を要求する問いに対して「はい」か「いいえ」で答えるのが〈answer〉であるならば〈retort〉はそのような問いの妥当性を、あるいはそれを問うという行為の是非を問題とする。だが、こうした洒落た言葉を知らなくても、「不当予断の問い」を受けたら、誰だって実質的に〈retort〉しようとするだろう。「君は、もう奥さんを殴ってはいないのか?」と問われた人は、「馬鹿野郎! 俺は嚊ァを殴ったことなぞ一度もねえや!」と怒鳴り返す。「あなたは、村会議員が公費でヨーロッパ視察に行くことに賛成ですか?」と聞かれたら、「『視察』じゃなくて『見物』でしよ?」と、さも小馬鹿にしたように問い返せばいい。問いの型式が「はい」か「いいえ」を要求しているからといって、それに「はい」か「いいえ」で答えようとする人は、本当の馬鹿を除いて、誰もいない。こんな詭弁など、詭弁として糾弾するだけの値打ちもない。だが、この詭弁は、あまりにも簡単に見抜け、容易に反論できるものであるだけに、議論の素人は、往々にして余計なことをしてしまう。
本書では、「君は、K西の、あの下さない詭弁の本を最後まで読んだのか?」という問いを例に、答え方について検証しています。
もし彼が、「私はK西の本は下らないとは思いません」などと答えたら、彼にとっては最悪の結果となる。そう答えることによって、彼には、K西の本が下らなくないという理由を説明する責任が生じてしまうからだ。相手は、その説明に対し、色々とけちをつけ、揚げ足を取ってくるだろう。議論においては、攻めるよりも守る方がはるかに難しい。こうして彼は、次第に窮地に追い込まれていくことになる。
したがって、正しい〈retort〉は、「K西の本のどこが下らないのですか?」のような、相手にその当然の義務を負わせるべきものでなくてはならない。そして相手の説明に対し、こちらは好きなだけ反論してやればよい。議論においては、何かを主張した側に、それを論証する責任がまず課せられる。これが立証責任ということだ。相手よりも先に、こちらがその主張の非なることを論証する義務はない。「不当予断の問い」の危険性は、それがあまりにも簡単に反論できるがゆえに、勢い込んで、相手にあるべき立証責任を買って出てしまいかねないところにある。
以上の引用から、「クラナリさん、もうインチキな記事は書いていないんですよね?」という問いには、「インチキって、どういうことを指していますか?」「『もう』というのは、どういう意味で使っていますか?」「『インチキな記事』について、具体的に示してもらえますか?」と問い返す形が妥当ということになります。
もちろん、論理的に考えること自体が悪いのではありません。しかし、いくら筋が通ったことを言ったり行ったりしても、得しないし、人徳として認められるわけでもないし、社会の中では「正しい」と判断されるとは限らないということ。
また、「はい」「いいえ」で答えることが求められたとしても、相手の質問に妥当性がなければ、質問で返すほうが損をしない(立証責任を負わない)わけです。
論理よりも立場(自分は強者か弱者か)。
論理よりも社会的な常識。
論破よりも説得。
無駄な立証責任は負わないこと。
論理を組み立てる前に、以上のことを頭に置いておきたいものです。
序章 論理的思考批判
弱者の悲鳴 / 威嚇は詭弁ではない / われわれは偏った力関係の中で議論する / 動機の詮索 / 町を行く人の思考と思想家の思考
第一章 言葉で何かを表現することは詭弁である
「事実」は並んでいない / 配列のもたらす効果 / 得になる場合と損になる場合 / 「事実」は連結されてもいない / 言葉の黒魔術 / 事実と意見は区別できない / 問いの詭弁
第二章 正しい根拠が多すぎてはいけない
論証の厚み / 根拠のせめぎ合い / ラスコーリニコフの二つの議論 / 心の弱さと議論法
第三章 詭弁とは、自分に反対する意見のこと
詭弁の定義あるいは詭弁としての定義 / 勢力のない側の意見のみが詭弁として非難される / チョムスキーの不満 / ピンカーの言語決定論批判
第四章 人と論とは別ではない
「人に訴える議論」 / 「人に訴える議論」の五分類 / 「関係がない」と「論点のすり替え」 / 論点をすり替えて何か悪い / 立証責任の移動 / 発話内容についても怪しい /レトリックの側からの説明 /空しい結論
第五章 問いは、どんなに偏っていてもかまわない
先決問題要求の虚偽 / 循環論法 / 「名づけ」による先決問題要求の虚偽 / 君はもう、奥さんを殴ってはいないのか? / 糾弾する値打ちもない
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