手児奈霊神堂と浅草神社との共通点「人が神になったわけだが……」

  各地に、人間が神様としてまつられている神社があります。日本で最も多いとされている八幡神社は、応神天皇が祭神です。

 このように、神様としてまつられている人の多くは、「ただの人」ではありません。歴史に名を遺した武将や、命をかけてその土地に貢献した人が、神様になっています。

将軍、武将、大名:坂上田村麻呂、源義経、平将門、楠木正成、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、毛利元就、武田信玄、上杉謙信

天皇:応神天皇、天智天皇、後醍醐天皇

陰陽師:安倍晴明

軍人、政治家:藤原鎌足(中臣鎌足)、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、乃木希典、東郷平八郎

名君:保科正之、上杉鷹山、水戸光圀

学者、思想家:菅原道真、吉田松陰、二宮尊徳

 しかし、例外はあります。
 市川市にある手児奈霊神堂は、複数の男性に言い寄られて海に身を投げた美女の手児奈が、無事安産・孝子受胎・健児育成・良縁成就の神として信仰されています。

 もっとも、『クラナリ』編集人は、手児奈伝説には疑問を呈してきました。

 その立場はひとまず置いといて、伝説上の手児奈は「とても美人だった」以外には、これといった功績はない「ただの人」です。

 最近、仕事関連で神社を調べていたら、「ただの人」がまつられている神社が見つかりました。それが浅草神社です。漁師である檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟と、役人の土師中知(はじのなかとも)が祭神なのです。

「推古天皇36年(西暦628)3月18日早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が江戸浦で漁労中、投網の中に一体の仏像を見付け、これを土師中知(はじのなかとも)が拝し聖観世音菩薩の尊像であることを知り、自ら出家し屋敷を寺に改めて深く帰依した」
これは『浅草寺縁起』に記された浅草寺草創のお話しです。


漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網に観音像がかかっていた想像図(『江戸名所図会』第6巻より)



 『浅草寺縁起』からもわかるように、観世音菩薩ですから仏教。浅草神社のルーツは浅草寺です。

正確な創建年代は不明ですが、その起源と経緯や各時代の縁起等に記される伝承を鑑みて、仏教普及の一つの方便である「仏が本であり、神は仏が権りに姿を現じた」とする権現思想が流行り始めた平安末期から鎌倉初期以降と推察されます。

明治政府より発せられた神仏分離令により、明治元年に社名を三社明神社と改めて、同五年には社格が郷社に列せられ、翌六年に浅草郷の総鎮守として現在の浅草神社に定められました。今でも氏子の方々にはその名残から「三社様」と親しまれています。

当社の鳥居は「神明鳥居」と呼ばれる形で、明治18年9月に建立されたものです。


 祭神の一柱が土師真中知命(はじのまつちのみこと)、つまり土師中知。そして浅草神社の現在の宮司は土師幸士さん。姓が「土師」です。

 土師氏の歴史は古く、古墳時代にまでさかのぼります。『日本書紀』には、野見宿禰(のみのすくね)という人物が、出雲国(いずものくに、島根県)の土部(はじべ)100人を連れてきて、天皇の墓に一緒に葬る人の代わりに埴輪を作ったという話が収載されているとのこと。野見宿禰が土師氏の祖とされていて、道明寺天満宮の祭神にもなっています。

 土師氏の活動の拠点は、現在の大阪府藤井寺市です。藤井寺市には近畿日本鉄道南大阪線の土師ノ里駅があります。「THE土師、」「ここまで土師」という感じですね。
 藤井寺市のサイトには、土師氏についての説明がありました。

土師氏は巨大古墳造りを担当することで豪族としての力を蓄えました。
ところが、6世紀後半になると、巨大古墳の築造は下火になり、土師氏の仕事が大幅に減ってしまったのです。伝統的な土師器の生産や陵墓の管理だけでは、豪族としての地位を保つことはできません。土師氏は一族存亡の危機を迎えたのです。
巨大古墳築造に替わる大きな仕事が簡単にあるはずもありません。土師氏の選択した道は、多くの豪族と同じように中央官庁に多くの人材を送り込むことでした。事実、文献史料からも外交や軍事の分野で、土師氏の一族が活躍したことが確認されています。
土師氏は官人を多く輩出することで、一族の危機を乗り切ったようです。その証が土師寺の建立なのです。
7世紀後半、地方豪族は競って寺院を建立します。その数は全国で700箇所にも達するのです。全国の豪族が急に仏教という新来の宗教に目覚めたとも考えられません。むしろ、寺院というこれまでになかったきらびやかで荘厳な空間を造り上げることで、自らの力を誇示する道具立てに使ったことが考えられるのです。


 古墳、つまり天皇など有力者の墓作りを担当していた豪族が、その勢力を保つために、全国各地に寺院を建立しました。浅草寺はその一つと考えられますね。

 土師氏は、後に「菅原」「秋篠」「大枝」などに改姓したとのこと。菅原道真のルーツも、土師氏です。
 浅草神社の現在の宮司の土師幸士さんについては、もともとは矢野幸士さんという名前で、出身は山口県。 愛知県豊田市のトヨタ学園を卒業後、トヨタ自動車(株)東富士研究所(静岡県裾野市)に研究開発員として従事していましたが、前の宮司の土師泰良さんの遠縁ということで、1993年に神職の道を歩み始めたのだそうです。

 浅草神社について調べていたら、手児奈にも伝説以外のエピソードがあるはずだと、改めて思った次第です。また「手児奈にも子孫がいたら……」とつい期待してしまいますが、700年も昔の話なので、「手児奈。その後」は誰にもわからないのでしょう。


■参考資料
人が神になる?神となった日本の偉人達

浅草神社 63代目宮司の門出盛大に 幸士さん就任350人祝う

天真寺通信

日本大百科全書(ニッポニカ)
土師部
はじべ

土部とも書く。土師連(むらじ)を伴造(とものみやつこ)とし、朝廷に埴輪(はにわ)・土師器(はじき)を貢進し、葬礼をも担当したトモまたはその部民。『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇32年条に、土部連の始祖野見宿禰(のみのすくね)が出雲(いずも)国(島根県)土部100人を率い殉人(じゅんにん)の代用として埴輪をつくった説話がみえる。土師部は出雲をはじめ山城(やましろ)、摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、遠江(とおとうみ)、武蔵(むさし)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)、美濃(みの)、若狭(わかさ)、丹後(たんご)、但馬(たじま)、因幡(いなば)、石見(いわみ)に設定された。雄略(ゆうりゃく)天皇17年条に贄土師部(にえのはじべ)の貢進がみえ、のち諸陵司の伴部となった。

[前川明久]

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