江戸川の橋にまつわるエトセトラ

  台風や地震などで、「市川は江戸川で東京と分断されているんだ」と実感した人は多いことでしょう。
 風が強ければ、橋を電車が渡れなくなってストップ。地震の際にも電車が止まり、多くの人が疲れた足を引きずりながら橋の上を歩いていました。

 そんな江戸川(江戸川放水路)にかかる橋の歴史を追ってみました。

 最初に架けられたと推測しているのが、総武線(昔は総武鉄道)の江戸川橋梁。1894年(明治27年)のことです。
 当時は、人々は船を使って川を渡っていました。それに自動車が普及していなかったため、鉄道のほうが先行して橋を架けていたのですね。
東京メトロ東西線の第二江戸川橋梁


アイリンクタウン展望室から見た橋


 1894年(明治27年)12月9日に、総武鉄道(明治40年に国有化、今の総武線)が江戸川を越えて本所(現在の錦糸町)に達しました。このときに、江戸川橋梁(おそらく木造)が架けられました。【鉄道】

 1905年(明治38年)には、木造の江戸川橋(今の市川橋)が架けられました。これは市民ではなく、陸軍のためでした。
※江戸川区郷土資料室の資料だと1904年(明治37年)
江戸川区郷土資料室 見学のしおりより



 総武鉄道の江戸川橋梁は、1907年(明治40年)年に鉄橋になったようですね。【鉄道】
 当時の橋が、茨城県の五霞町にある中の島公園に展示されています。
歴史的な鋼橋・ポニー型トラス橋についてより

 1914年(大正元年)に、木造の下江戸川橋(後の今井橋)が架けられました。
※江戸川区郷土資料室の資料だと1912年(明治45年)。

 1914年(大正3年)に、京成電気軌道株式会社が江戸川と市川新田(今の市川真間)の間に電車を走らせました。【鉄道】
 橋を架ける工事の様子です。
『京成電鉄85年の歩み』より

『京成電鉄85年の歩み』より

 江戸川放水路が竣工したのは、1919年(大正8年)。江戸川放水路の開削によって行徳村が2つに分けられてしまったため、行徳橋が架けられました。同じ村なのに橋を渡らなければ行き来できなくなったのです。

 1927年(昭和2年)12月2日、木造の江戸川橋よりも南側の現在地に鉄橋を設置され、市川橋と名称が変更。

 1951年(昭和26年)、片側一車線のコンクリート製の橋が、現在の今井橋の50メートルほど上流側にあったのだそうです。


 1960年(昭和35年)、京葉道路の一之江~船橋間が開通。このタイミングで江戸川大橋が設置されたと思われます。
※江戸川区郷土資料室の資料だと、1970年(昭和45年)に改修され、拡幅されたとのこと。


京葉道路の全線開通40周年の整備効果 - NEXCO東日本より



 これは余談ですが、地下鉄東西線が、1969(昭和44)年、東陽町駅~西船橋駅間の開通に向けて、試運転を行いました。東西線が初めて千葉県に乗り入れる地下鉄路線となったそうです。【鉄道】
旧江戸川橋に架かる第一江戸川橋梁を渡る5000形車両(メトロアーカイブアルバムより)



 1972年(昭和47年)千葉県道6号市川浦安線の道路橋である新行徳橋が設置。このときは有料道路で、1993年(平成5年)に無料化されました。

 新行徳橋が設置される前は、行徳橋の交通量が非常に多かったのではないでしょうか。
 それをしのばせるのが「姉弟地蔵」。
 行徳橋のすぐ近く道路(千葉県道6号の江戸川沿い)の横断歩道を渡っている姉と弟が、交通事故で亡くなってしまったのだそうです。「親の悲しみのあまり 今後交通事故のないやう 心より祈り 姉弟地蔵を建立す」と書かれていました。昭和47年(1972年)12月のことです。
 「運転手さん あなたが守る小さな命 友は作るものなのにここで友をふたり失いました」と、当時の富川 進市長の名前とともに刻まれています。


 1972~80年(昭和47~55年)、東京湾岸道路(国道357号)の市川大橋が順次施行。
国道357号 東京湾岸道路 より

グーグルマップ航空写真より


 1973年(昭和48年)、東京地下鉄東西線の第二江戸川橋梁が竣工。【鉄道】

 1979年(昭和54年)、現在の場所に今井橋が架けられました。
※江戸川区郷土資料室だと1981年(昭和56年)。

 2019年(平成31年)3月19日、妙典橋が開通。

 2020年(令和2年)3月10日、架け替えられた新しい行徳橋が開通。
新行徳橋から眺めた、新しい行徳橋



■参考資料
メトロアーカイブアルバム

東京の橋

Wikipedia

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