京成電鉄江戸川橋梁の今昔


 京成電鉄江戸川橋梁を眺めると、歴史の痕跡があちこちに見つけられます。
 例えば上の写真。手前のコンクリートの土台より、今の線路のほうが2メートルほど高くなっています。これは1974(昭和49)年に橋が架け替えられた際の名残。
 50年ほど前は、今とはかなり違った光景が広がっていたのではないでしょうか。

 今回は江戸川橋梁の歴史をたどってみました。


 「利根川東岸一覧」は、1868年(慶応4年、明治元年) に作成されたとされる浮世絵。

「利根川東岸一覧」https://trc-adeac.trc.co.jp/より

 国府台には松林と田畑が広がり、市川の市街地とは階段状の歩道でつながっているだけのように見えます。そして現在、京成電鉄国府台駅がある場所は、松林か水浸しか、どちらかだったと推測できます。

「利根川東岸一覧」https://trc-adeac.trc.co.jp/より

 今昔マップで確認すると、「利根川東岸一覧」が作成された1868年から約30年後の1896年には、国府台と市川の市街地が道路で結ばれています。この道路が、松戸街道。

 「利根川東岸一覧」だと水浸しだった市川真間周辺は、陸地化しています。




 地球の気温の変化から推測すると、江戸時代よりも明治以降のほうが気温が高いため、海水面が上昇しているのではないでしょうか。そうなると、市川真間周辺が水浸しではなくなったのは、人工的なものだと考えられるのですが……

北川浩之1995 「屋久杉の年輪の炭素同位体比から明らかとなった歴史時代の気候」

 松戸街道を作る際に削り取られた土が、埋め立てに使われたのかもしれません。あくまでも推測です。

 江戸川橋梁が完成したのは1914(大正3)年8月。当時の地図にも、京成電鉄の線路が描かれています。

 市川鴻ノ台(今の国府台)駅が開設された当時は、立体交差になっていない、普通の踏切だったと考えられます。ちなみに駅名は、1915(大正4)年に市川駅に、1921(大正10)年に市川国府台駅に、1948(昭和23)年に国府台駅に変更されています。

 1925(大正14)年には、江戸川の川幅を広げる工事が行われた関係で、江戸川橋梁も改修。1927(昭和2)年に開通したときには、橋の長さが226メートルから492メートルに伸びて、複線化が完了しました。

 線路と松戸街道の立体交差は、このときからではないでしょうか。
 以下の写真のコンクリートの土台の上に、当時、線路が載っていたはずです。階段は、松戸街道から国府台駅に向かうためのものだったと考えられます。



 1974(昭和49)年に、江戸川の下流側に新しい橋が建設されました。このときに線路が2.2メートルかさ上げされたそうです。そして1980(昭和55)年に橋が完成したときに、線路は高架橋になったとのこと。

 『京成の駅 今昔・昭和の面影』には「旧橋梁時代は堤防沿いの道路から出入りする地上駅だった」と書かれていて、この「道路」は松戸街道を指していると推測できます。市川真間側と江戸川側にそれぞれ改札があり、例えば「上りは市川真間側の改札を、下りは江戸川側の改札を使う」というパターンだったに違いありません。

市川真間側の階段

江戸川側の階段
 京成電鉄は、もともとは成田山詣での乗客獲得を狙ったものではありましたが、近年は東京への出勤などで利用している乗客がほとんどではないでしょうか。それが今では、新型コロナウイルス感染症でテレワークが推奨されることになりました。
 これからも、駅の様子は時代の変化とともに変わっていくのでしょうね。

■参考資料

『京成の駅 今昔・昭和の面影』
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