勝手にパワースポットその8 六所神社

六所神社
〒272-0825 千葉県市川市須和田2-22-7

 境内の掲示には、以下のように書かれています。
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当六所之宮は、いまを去る1881年前人皇十二代景行天皇の勅願によって
大己貴尊 伊弉諾尊 素盞嗚尊
大宮売尊 布留之御魂 彦火瓊々杵尊
六神を祭礼した宮と伝えられ国府台字府中の六所の森(現在の国府台スポーツセンター内市民体育館)北に鎮座していました。
その後下総国の総社として国守による祭礼が行われて来ましたが戦国時代には里見氏、北条氏、千葉氏の各諸将の守護を受け、さらに徳川氏からは朱印賜り、篤崇敬されていました。
御神徳勇武の神として宏く、幸運招来、厄払い、縁結びさらに学問の神として須和田、真間、根本、市川の四カ村の鎮守として古くから崇められて来ました。
明治十九年境内が陸軍用地となったため此の地に遷座されました。
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 景行天皇とは日本の第12代天皇で日本武尊の父。紀元前13年から西暦130年まで生きたとされています(伝説上の人物)。 

 祭神の大己貴命(おほなむち)については、大国主(おおくにぬし)という名前が有名で、大穴牟遅神(おおなむぢ)、大穴持命(おおあなもち)など10以上の名前があります。
 大己貴命は出雲大社の祭神。
 「因幡の白兎」で有名な神様です。
 ですから鳥居は出雲系です。

 参拝は二拝四拍手一拝(にはいよんはくしゅいっぱい)になるのでしょうか。

 市川市のウェブサイトによると、六所神社は「下総国(しもうさのくに)の総社」だったとのこと。

 大化の改新(私が習った頃は645年の出来事)の後で日本はいくつかの地域に分けられたようです。
 その地域の一つが下総国。
 今の千葉県北部、茨城県南西部、東京都と埼玉県の一部が、下総国だったそうです。

 地域の政治の中心地には国府(こくふ)が置かれました。会社でたとえると、朝廷が東京本社で、国府は各県の出張所というところでしょうか。
 下総国の国府は、国府台(こうのだい)にあったとのこと。

 景行天皇のことはひとまず置いておいて、六所神社は市川市内で最も古い歴史を持つパワースポットといえそうです。

 国府台に六所神社はありましたが、明治時代に須和田に移されたそうです。
 國府神社も別の場所に移されたようですね。
 いずれも国府台に陸軍の施設を作るためだったとのこと。

 六所神社があったとされる場所は、今は国府台公園・スポーツセンターになっていてパワースポット感はありません。

国府台公園・スポーツセンター
〒272-0827 千葉県市川市国府台1-6

 この地が元々は日本の気を調整するための場所だったとしても、人々がその土地を守らなければ、パワースポットとしての役割を果たさなくなるのでしょう。




 現在の六所神社を見ると、菊の花が神紋なのでしょうか。

 鳥居から拝殿を見て、左側には数々の石像がありました。



 ところで、鳥居を撮影した写真からお分かりのように、境内が駐車場・駐輪場と化している印象です。拝殿の前にも駐車されていたので、ちょっとがっかりしました。
 ただ、市川駅周辺の神社や寺を巡っていると、こうしたことはあまり珍しくありません。
 弘法寺では、近所の大学の男子学生と思われる2人連れが、2人とも歩きたばこで境内を通り抜けていました。
 町中にある小さな社の目の前がゴミ置き場になっていることもあります。

 私が田舎で育ったからかもしれませんが、鳥居よりも奥に車がとまっていたり、鳥居の前がゴミ置き場になっていたりするとギョッとします。
 市川のような都会では、スペースに余裕がないのでしょうか。
 人間の都合で引っ越しさせられるなど、国府台の神様も大変です。

 山伏の奥さんを取材したときに私は初めて知ったのですが、昔は寺院の敷地内に神社があるなど、仏教と神道ははっきりと分かれていませんでした。
 明治時代の神仏分離令で寺院と神社、仏教と神道が分けられたとのこと。
 政治という人間の都合によるものです。
 しかし山伏は、現在まで神仏を分けずに信仰しているのだと、山伏の奥さんから聞きました。

 山伏は山ごもりや滝行、火渡りなど厳しい修行をします。
 修行の目的は、山伏自身や家族の幸せではなく、世の中の人すべての平和と健康を祈るためなのだそうです。
 自分の損得を捨ててこそ、ご利益が得られるのかもしれません。
 「効率のよさ」や「富」などが重要視される資本主義社会とは異次元の世界があるようです。
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