高いのか低いのかわからない市川市の「高谷」という地名は、「荒野申付」がルーツではないか問題
谷 valley丘や山に囲まれた細長い凹地。多くは河川や氷河などの侵食によってできたものだが,断層運動・褶曲運動などの地殻運動によって生じたものもある。
平凡社「最新 地学事典」 コトバンク
皆さんもよくご存じのとおり、谷とはへこみ。山は高く、谷は低いものなのです。
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| 谷折り |
にもかかわらず、地名が「高谷」なんて、「ちょっとちょっと、高いの? 低いの? いったいどういうことなの!」と納得できないものがあります。
納得はできないのですが、地名としては珍しくないようです。コトバンクでは、以下が掲載されていました。
○読み方:こうや
千葉県市川市高谷
千葉県香取郡神崎町高谷
埼玉県比企郡小川町高谷
栃木県栃木市高谷町
○読み方:たかたに
新潟県上越市牧区高谷
○読み方:たかだに
千葉県いすみ市高谷(旧・夷隅郡大原町高谷)
○読み方:たかや
千葉県袖ケ浦市高谷
千葉県山武郡芝山町高谷
神奈川県藤沢市高谷
また、「高谷(たかや、たかたに)」という名字も、さほど珍しくないようです。
ここで話題として取り上げるのは、もちろん、千葉県市川市高谷です。
市川市の地名というわけで、市川市立図書館の「市川の地名」というサイトを確認しました。
市川市の高谷は、鎌倉時代の正治元年(一一九九)ごろには、「沖島」とか「浮島」と呼ばれ、漁師の家が七戸あったといわれています。
「高谷」の地名は、「高まりのある原野」即ち「高野」だったのではないでしょうか。また、「コウヤ」は、「耕屋」とも解釈できます。荒地を耕地にした所という意味です。
えー……
なにこれ……
げっそりして、ほかに検索したところ、京葉ガスのサイトがヒット。
「稲荷木(とうかぎ)」には稲を干す木、「田尻(たじり)」には田圃に四方を囲まれた村、「高谷(こうや)」には荒野(こうや)開墾で免税(荒野申付〔こうやもうしつける〕)された意味がある。「原木(ばらき)」には荒地(ばらち)の意味もあるが、単にとげのある木の生える地ともいう。
「沖島」「浮島」「荒野申付〔こうやもうしつける〕」がキーワードになりそうです。
浮島
「浮島」については、市川市高谷2-16-4にある了極寺がヒット。
行徳領浮島村(現在の高谷)百姓磯貝新兵衛の家に止宿し、村の人々に法話をした。彼の話に感銘した新兵衛は、阿波介の御伴をして教化の旅に出た。約半年後、中尊寺金色堂に至り阿波介は真影を西の柱に掛け、端座合常して往生したといわれる。新兵衛、阿波介の志を継いで故郷の浮島村に帰り真影を本尊と仰いで草庵を結び八十歳で往生したといわれる。開創年次1558~1569年(永禄年間)
下総行徳領浮島村(現在の高谷)の百姓・磯貝新兵衛なる者の家に止宿し、村の人々(当時は農漁家七軒と伝えられる)を集め法話した。
『千葉県浄土宗寺院誌』 編:千葉県浄土宗寺院誌編集委員会
了極寺が創設されたのは永禄年間、つまり室町時代後期の戦国時代です。市川市立図書館の「市川の地名」だと、高谷は鎌倉時代に「浮島」と呼ばれたことになっていて、「漁師の家が七戸あった」などの表現もあります。ですから、「市川の地名」の情報の元になっているのは了極寺だと考えられるでしょう。
WEB版新纂浄土宗大辞典によると、阿波介(あわのすけ)は、鎌倉幕府が成立した12世紀末頃に活動した人物とされています。もともとは京都伏見に住んでいて、何らかの理由で岩手県の中尊寺金色堂に向かう途中、「浮島」に立ち寄ったのでしょう。
磯貝新兵衛は、阿波介とともに中尊寺金色堂に行ってから、「浮島」に戻ってきて、わらやかやなどが屋根の家(草庵)を建てたとのこと。磯貝新兵衛の年齢を考えると、鎌倉時代前期だと考えられます。
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| かやぶき屋根の家 写真:Le Thanh Huyen |
草庵が後に了極寺という寺になったのが、室町時代後期という流れでしょうか。磯貝新兵衛が草庵を建ててから(鎌倉時代前期)了極寺が創建される(室町時代後期)までに、およそ385年が過ぎています。
別の角度から、検討し直しましょう。
「浮島」は、古代の東海道に置かれた、下総国の駅の名前です。ですから、阿波介が京都府から岩手県に行く際に東海道を利用したのであれば、「浮島」を経由した可能性は高いといえます。
「浮島」が現在はどこなのかは定かではなく、幕張・鷺沼・津田沼・墨田区といった説がありました。
ただ、高谷という説は見つかっていません。
以上のことから、素人考えですが、了極寺の前身ともいえる草庵が建てられたのは「浮島」であっても、現在の高谷ではなかったのかもしれません。
了極寺のサイトには「行徳領浮島村」と書かれているものの、行徳という地名は、室町時代後期の修験者(山伏)が由来です。つまり、鎌倉時代に「行徳領」は存在しないのです。
○まとめ
鎌倉時代が成立する頃:京都伏見から中尊寺金色堂に向けて阿波介が出発し、東海道を歩く
鎌倉時代前期:東海道にあった「浮島」の磯貝新兵衛の家に阿波介が宿泊する
鎌倉時代前期:阿波介と一緒に磯貝新兵衛が中尊寺金色堂に向かう
鎌倉時代前期:阿波介が中尊寺金色堂で亡くなり、磯貝新兵衛が「浮島」に戻る
鎌倉時代前期:磯貝新兵衛が「浮島」に草庵を建てる
~およそ385年~
室町時代後期の戦国時代:磯貝新兵衛の草庵を受け継いできた人が、行徳領で了極寺を創建する
荒野申付
別のキーワード「荒野申付」については、後北条(小田原北条)氏と関係がありました。1564年の第二次国府台合戦の後で、現在の行徳エリアは後北条氏の領国になります。
埼玉県坂戸市教育委員会が発行した郷土歴史資料『坂戸風土記』第15号に、以下の記載があります。
※新たに開墾した土地について
江戸時代には多くは新田といわれ、さらに時代が降って百姓が個人的に拓いたところはあらく(荒区)などと言われ、地名によって開発の時代を想定することができるが、中世においてはこうや(興野・荒野・幸谷・興屋・紺屋)と言われた。中世末期の天文頃、小田原北条氏の関戸村に出した文書に「新宿興行に付、七年荒野申付る云々という」のがあり、荒野を開墾した者には七年の間荒野同様の無税の扱いをしたものと考えられている。
『坂戸風土記』第15号
「中世においてはこうや(興野・荒野・幸谷・興屋・紺屋)と言われた」に「高谷」の漢字はありません。しかし、荒野+幸谷→高谷(こうや)と考えられます。なにより、読み方が一緒です。
『坂戸風土記』によると、江戸時代に入る前に開墾された土地は「こうや」、江戸時代に入ってからは「新田」という名前がつけられました。
江戸時代前期に制作された「元禄(げんろく)国絵図」を確認すると、「高谷」という地名が記載されています。具体的には「古者 高谷村 下高谷村シモカフヤ」です。
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| 元禄国絵図 出典:国立公文書館デジタルアーカイブ |
さらに江戸時代後期の1835~1838(天保6~9)年に作成された「天保(てんぽう)国絵図」も確認してみましょう。こちらは「高谷村」と書かれています。
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| 天保国絵図 出典:国立公文書館デジタルアーカイブ |
高谷は江戸時代より前に開墾された土地、加藤新田などは江戸時代に開墾された土地とわかります。また、高谷には、主要な道(行徳道)は通っていませんでした。
以上のことから、高いのか低いのかわからない「高谷」という地名は、「荒野申付」がルーツだと考えられます。
■主な参考資料
コトバンク
高谷村こうやむら千葉県:市川市高谷村[現在地名]市川市高谷一―三丁目・高谷田尻たじり村の南東に位置し、南には塩浜が広がっている。江戸時代は幕府領として推移した(旧高旧領取調帳など)。当村では寛永一四年(一六三七)から享保一三年(一七二八)までの間で三〇点近い年貢割付状が残されている(清沢家文書)。これらの年貢状から延宝二年(一六七四)・元禄一五年(一七〇二)と検地が実施されたことがうかがわれ(元禄検地帳は現存)、元禄八年から同一六年までの間(おそらくは同一五年の検地時)に新田の半右衛門組が分郷している。なお同一六年以降の年貢割付状は新田分のものである。寛永一四年の反別は本田で上田が一町七反余(うち荒五反)・取米六石余、中田は三町七反余(同七反余)・取米三石余、下田は五町九反余(同二町余)・取米九石余、畑方は上畑が九反余・取永八〇〇余文、中畑は六反余・取永四六〇文、下畑は一町二反余(取永は不明)、屋敷二町四反余・取永三貫余文、ほかに新田分として下田二町九反余(うち荒五反)・取米四石余、下畑三畝余・取永一一文で取米・取永の合計は三四石余・五貫五八四文であった。
練馬区史第二編 沿革
小田原北条氏の諸政策の中でも、農政はもつとも力を入れた一つである。戦国領主間の戦乱は農民から田畑を奪い、農耕はなおざりにする結果を招いた。北条氏はまづ、逃亡した領内の百姓の帰農をすすめ、農民の移動を防止し、離農を強く戒めた。「郷中へ不ニ田能一由一段曲事候、何方ニ居候共早々押立三日中に可ニ罷帰一」との触書を出し、これに従わないものに対しては、厳重な処分を行つたのである。次の文書は本区内白子郷の農民に対して出作による離農をかたく禁じたお触れである。改被仰出条々一 当郷田畑指置他郷寸歩之処不可出作事一 不作之田畠甲乙之所見届五年荒野七年荒野に代官一札を以可相聞事一 当仰儀者自先代不人之儀至当代猶不入御証文従御公儀可申請間新宿見立毎度六度楽市可取立事一 白子郷百姓何方に令居住共任御国法代官百姓に申理急度可召返事一 御大途御証文併此方証文無之誰人用所申付共不走廻事右条々違反之輩有之付而者注交名可遂披露者也仍如件天正十五年丁亥年四月三日 代官白子郷百姓中(新編武蔵風土記稿新座郡巻六)
市川市 寺院一覧
了極寺 市川市高谷2-16-4 永禄2年(1559年)→戦国時代(室町時代後期)
常明寺 市川市高谷2-13-16 寛永2年(1625年)→江戸時代初期
※市川市 寺院一覧には掲載されていないがAIがピックアップ
安養寺 市川市高谷2-16-35 天文3年(1534年)→戦国時代(室町時代後期)
阿波介
一二世紀末頃、生没年不明。「阿波の介」とも書かれる。法然に帰依した京都伏見居住の陰陽師おんみょうじ。







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