新田、加藤新田、湊新田……干拓はどこでどうやって行われたのか

新地
新田
新開
新涯
開作
(こもり) 

 こうした地名が付いている場所は、干拓地だった可能性が高いといいます。
 市川市内にも「新田」「加藤新田」「湊新田」という地名があります。



 干拓と埋め立てについては、以下の違いがあります。

干拓

方法 堤防などで水深の浅い海や湖を仕切って、水を抜いて陸地にする
特徴 干拓地は、元(海や湖だった頃)の水面より低くなる場合が多い

埋め立て

方法 ほかの場所から土砂を運んで海や湖を埋め、陸地にする
特徴 埋め立て地は、元の水面よりも高くなる場合が多い

 日本での埋め立ての歴史については、東京湾の海岸線はどう変わっていったのか問題(あくまで市川市民目線)で紹介した、徳川家康の「天下普請」(1603年頃)が最も古いと紹介されています。

 一方、干拓については大変に歴史が古く、323年に行われたという記録がありました。干拓、古!
 当時、大阪府の淀川と古川の間で水害が多かったそうです。そこで仁徳天皇が詔を出して、淀川左岸に茨田堤(まんだのつつみ)という堤防が築かれ、干拓事業が行われました。
 堤防を築く技術については、渡来人がもたらしたものです。
茨田堤(寝屋川市サイトより)


 市川市内での干拓地といえば、まず新田でしょう。
 また、南行徳・行徳・妙典エリアの多くも干拓地と推測できます。塩田は、干拓を行って作られていたからです。
 ただ、加藤新田については、昭和43年7月に埋め立てられたというデータがありました。元は干拓地で海面よりも低かったため、土砂を運んできて埋め立て、高くしたのだと推測できます(干拓+埋め立て)。
埋め立ての状況(関東地方整備局のデータより)


 さらに推測ですが、市川市と合併する前の行徳町は、非常に広い範囲でした。
行徳町(赤い線で囲まれた地域)

 行徳町の人々は、高い干拓技術を持っていたのではないかと。ですから、上の地図の赤い線で囲まれた地域で、もともとは低地だったところは、干拓が行われた可能性が高いとひそかに思っています。
 そんなルーツを感じさせるパワースポットが、市川市大洲2-11にある大洲神社です。




 大洲神社は、JR市川駅から南へ徒歩20分ほどの住宅街の中にある小さな神社です。

 大洲神社の祭神は、市川市本行徳にある神明社(神明神社)から勧請された豊受大神(トヨウケノオオカミ)です。大洲の人々は、もともとは本行徳周辺で暮らしていたのでしょう。田んぼを広げていくなどで住む場所を本行徳から大洲に移した住民が、神様にこの地に招いたのです。



■主な参考資料
干 拓 の 史 的 原 点―昔の干陸地とその社会 ―藤 川 武 信

東京湾の埋め立て

7.沼を干す
Powered by Blogger.