東京湾の海岸線はどう変わっていったのか問題(あくまで市川市民目線)
東京湾には、狭義と広義があります。
狭義……三浦半島の観音崎(神奈川県横須賀市)と房総半島の富津岬(千葉県富津市)を結ぶ線以北
広義……三浦半島南東端の釼崎(神奈川県三浦市)と房総半島南西部の州崎(千葉県館山市)を結ぶ線以北で、南西約30km・南北約80km、湾域の面積は約1、400k㎡
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東京湾の衛星写真(Wikipediaより、一部改変) |
約2万年前は氷期で、北極と南極を中心に氷(氷山、氷河、氷床)がたくさんあったので、海面は今よりも低い状態でした。ちなみに、海面が上がることは海進(かいしん)、下がることは海退(かいたい)と呼ばれています。
当時は今よりも130メートルほど海面が低かったため、狭義の東京湾、つまりの観音崎から富津岬までが陸地だったのです。市川駅前のI-linkタウンいちかわ ザ タワーズ イーストは、 地上37階で高さは130メートルです。ですから、ちょうどザ タワーズ イーストの高さ分の海面の変化があったことになります。
陸地だった頃の東京湾に流れていた川は「古東京川」と呼ばれています。現在の江戸川や荒川、多摩川などが合流して、太平洋に流れ込んでいました。
氷期の終わり頃に温暖化が進み、約7000~6000年前には、現在に比べて海面が2~3メートル高くなっていました。これは「縄文海進」と呼ばれています。
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関東平野の旧海岸線(葛飾区史より) |
なお、縄文海進が終わったのは、海水の重みで、海の底が沈んだからと説明されています。
縄文海進の後、今から約2000年前の弥生時代には海面が現在とほぼ同じになりました。
とはいえ、海岸線は埋め立てで大きく変わっています。
今回は、東京湾の海岸線がどう変わっていったのかを、千葉県市川市の住む一市民(素人)目線でまとめてみます。
まず「江戸前島」の消滅。
海岸線プロにはおなじみなのでしょうが、徳川家康が江戸にやってきた(入府した)1590年8月1日以降に、東京湾の海岸線は大きく変わってしまいます。
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谷弘「古地図から読み解く江戸湊の発展(その1)」より |
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東京港の変遷より |
上の図からもわかるように新橋は海の中。浅草は港だったとのこと(石浜湊)。
江戸の発展は、常に埋め立てとともにあったと言っても言い過ぎではありません。
東京都の太田記念美術館は、こう書いちゃっていました。
家康は、1457年に太田道灌が築いた江戸城を居城とします。そして「天下普請」として、1603年頃から、江戸城から近かった神田山の土砂を使って、日比谷にあった入江を埋め立てました。
山を切り崩して埋め立てる。ちょっと今だと想像がつかないですよね……
こうして天下普請が進められ、1838に完成した天保国絵図だとこんな海岸線になっていました。埋め立てが進んで、江戸前島が消滅しています。
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天保国絵図(国立公文書館アーカイブより |
では、江戸時代の市川市はどうだったのでしょうか。
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天保国絵図(国立公文書館アーカイブより |
あくまで推測ですが、江戸城周辺と比べて、当時の市川市は閑散としていて、わざわざ埋め立てる必要はなかったのではないかと。塩業のために整備された程度と思われます。ですから、市川市での東京湾の海岸線は、江戸時代までは自然に近い状態だったのでしょう。
大きく変化するのは、昭和です。
1926(昭和元)年、内務省土木会議で東京湾臨海工業地帯の計画が立てられます。そして1940(昭和15)年には、重化学工業の用地として、江戸川左岸から市原市五井までの海岸線にを埋め立て、京葉運河を開削する計画ができていたのです。
この埋立事業は太平洋戦争のために、約200ヘクタールが終わったところで中断しました。しかし、戦後は計画を拡大して埋め立てが進んでいきました。
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東京湾の年代別埋立状況より |
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埋め立ての状況(関東地方整備局のデータより) |
高度成長期の1962(昭和37)年に千葉県知事に就任した加納久朗氏は、原爆で鋸山などを壊して東京湾を埋め立てる「ネオ・トウキョウ・プラン」の発案者でした。
山を切り崩して東京湾を埋めるという発想にクラナリは驚いていたのですが、家康という先駆者がいたのですね。ただ、ネオ・トウキョウ・プランが実行されなくて、本当によかったと思います。
高度成長期には、経済が発展して、首都圏で人口が急増し、それが未来永劫続くと考えられていたのでしょう。
当時の人々は、少子高齢化で人口減の現代とはまったく異なる視点で、現代の(高度成長期の人々にとっては未来の)問題に取り組んでいたわけです。
当たり前の話ですが、未来は予測できない。
私たちの歴史を振り返ると、このことがよくわかります。
■主な参考資料
京葉臨海工業地帯
海上保安庁
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