「派川大柏川」の派川(はせん)とは何なんだ問題

写真左が派川大柏川で右が真間川

真間川に架けられた三角橋

 「派川大柏川」は「はせんおおかしわがわ」といいます。

 はせん?
 ハセン?

 そういえば、派川について知りません。「本流」「支流」などとも違うのでしょうね、きっと。 
 それで調べたところ、国土交通省のサイトに以下の説明がありました。

本川(ほんせん)
 流量,長さ,流域の大きさなどが、もっとも重要と考えられる、あるいは最長の河川です。

支川(しせん)
 本川に合流する河川です。また、本川の右岸側に合流する支川を「右支川」,左岸側に合流する支川を「左支川」と呼びます。さらに、本川に直接合流する支川を「一次支川」,一次支川に合流する支川を「二次支川」と、次数を増やして区別する場合もあります。

派川(はせん)
 本川から分かれて流れる河川です。

放水路(分水路)
 河川の途中から新しく人工的に開削し、直接海または他の河川に放流する水路のことで、「分水路」と呼ばれることもあります。河川の流路延長を短くして、洪水をできるだけ早く放流する場合,または洪水量が増大して河道の拡張だけでその洪水を負担することが困難な場合,あるいは河口が土砂の堆積などによって閉塞されているような場合に設けられます。


国や都道府県では通常、本流を「本川」、支流を「支川」と呼んでいます。

 『クラナリ』編集人は、大きな川から分岐している細い川が「支流」だと勘違いしていました。分岐しているのが派川なのですね。

 話を派川大柏川に戻すと、大柏川から分かれて流れているのに、真間川に合流しています。ならば「支川真間川」と呼んでもいい気もしますよね。

 派川大柏川と名付けれた理由は、その歴史にあるのかもしれません。

 1912年(明治45年)から1919年(大正8年)まで行われた耕地整理事業で水路が開削されて、真間川は現在の流路となりました。その前はというと、下の左側の地図のとおり。
今昔マップより、一部改変

 地図上に、わかる範囲で当時の川らしきものを青い線で重ねています。小さな水路も多数あるのですが、これらはなぞりませんでした(あまりにも多過ぎる)。
 昭和学園の周辺は、当時、広大な沼地だったようです。

 この地域は、過去にあまりにも流路が多過ぎて、何が何だかという状態だったことは、以下の記事に書きました。



 『真間川百年』(著/鈴木恒男 崙書房)には、「今の真間川は実は、現在大柏川と呼ばれているの川の一つの支流に過ぎなかった」(11ページ)に書かれていました。この記述は、『クラナリ』編集人と同じ勘違いをしています。支流ではなく、派川と書くべきですね。
 
 『真間川百年』の著者の説では、耕地整理事業が行われる前の真間川は以下のルートということになります。
○大柏川→派川大柏川など→沼地→真間川→江戸川


 下は、国土地理院の地図で、高低差がわかるように色を載せました。標高が高い場所から順に茶色→黄土色→黄緑色→水色→青となっています。
 水色の部分には、前述の「広大な沼地」が広がっていました。ちなみに中央近くの青い部分が、大柏川第一調節池緑地です。
国土地理院の地図

 派川大柏川については、台風が近づくとネットで「氾濫する恐れあり」という警告を見ることが多々あります。上の地図を見ると、「そうだろうな」と納得できますね。

 「広大な沼地」だった真間川沿いに、ひっそりと、水神様の小さな祠がありました。古いもののようで、文字が消えかかっています。


 赤いぽっくり(下駄)が置かれていることが非常に気になったので、調べたところ、水神は女神だからだと推測しました。弥都波能売神、水波能売命(みづはのめのかみ)、罔象女神(みつはのめのかみ)などと呼ばれています。
 
 耕地整理事業などによって、町の風景がガラリと変わると、その土地の由来がわかりにくくなっていきます。そんな中、川の名前や小さな祠が、ひっそりと歴史を教えてくれている気がしています。

真間川



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