真間川は、いつから「真間川」と呼ばれるようになったのか問題 番外編 川も水路も多過ぎる件について

  地形から、真間川の成り立ちを探ってみましょう。

 下は、国土交通省の地図で、高低差がわかるように色を載せました。標高が高い場所から順に黄土色→黄緑色→緑色→水色→青となっています。


 上の図を、下の『図説 市川の歴史』(編/市川市教育委員会)の図(一部改変)と、脳内で重ねてください。

 大柏谷を流れる大柏川と、国分谷を流れる国分川が、市川砂州でせき止められて、水がたまりやすい箇所が2つ発生すると考えられます。

 また、市川砂州にも高低差や、幅の差があります(国土交通省の地図参照)。そのため、国分川と市川砂州がぶつかったところは、西のほうへと水が逃げていき、後に真間川になったと考えられます。

 大柏川の場合、市川砂州がやや低く、幅も薄くなっている箇所が見受けられます。その箇所から水が市川砂州を通り抜けて、南側にいくつか自然の水路ができていた可能性もあるでしょう。

 『真間川百年』(著/鈴木恒男 崙書房)の「大正末年の内匠川水系の川の名」でも、多数の川と水路の名前が出てきます。正直、多過ぎる気がします。

 縄文時代は、そのほとんどが海の下だった市川市。低湿地が多く、下総台地から水が流れてきたため、川も水路も多かったのでしょう。

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