160年にわたる、先人たちの水との戦い 「旧坂川の碑」
水は私たちの命を養うと同時に、命を奪うものでもあります。
水は欲しいが、あり過ぎると困る……そんな水との戦いの数々が、「旧坂川の碑」(市川市国府台3丁目16−6)から伝わってきました。
水は欲しいが、あり過ぎると困る……そんな水との戦いの数々が、「旧坂川の碑」(市川市国府台3丁目16−6)から伝わってきました。
「旧坂川の碑」があるのは市川市国府台ですが、今回の主な舞台は松戸市です。
市川市と同様に、下総台地と江戸川が松戸市の地形を特徴づけています。
JR常磐線の松戸駅周辺は、標高が低いのですね。
「AR地形模型」というアプリで見たところ、標高3メートル前後。そんな低湿地だったために、昔は大雨が降ると水浸しになっていたようです。
JR常磐線の松戸駅周辺は、標高が低いのですね。
「AR地形模型」というアプリで見たところ、標高3メートル前後。そんな低湿地だったために、昔は大雨が降ると水浸しになっていたようです。
「AR地形模型」で見たJR松戸駅周辺 |
江戸時代には、現在の流山市・松戸市の江戸川流域の人々が、「水路を掘らせてください」と江戸幕府に請願を繰り返したとのこと。
そして、流山から松戸まで水路を切り開いたところ、まだまだ洪水は続いたのですね。
さらに下流の栗山まで水路を延長させてほしいと請願したところ、下流民との争いが勃発したのだとか。
下流民も、おそらく、洪水にたびたび悩まされていたのでしょうね。「ただでさえ大変なので、水路なんて作られたら、たまらない」と思ったに違いありません。
そして、流山から松戸まで水路を切り開いたところ、まだまだ洪水は続いたのですね。
さらに下流の栗山まで水路を延長させてほしいと請願したところ、下流民との争いが勃発したのだとか。
下流民も、おそらく、洪水にたびたび悩まされていたのでしょうね。「ただでさえ大変なので、水路なんて作られたら、たまらない」と思ったに違いありません。
ようやく話し合いがまとまったのが、55年後だったとのこと。な、長い……
こうして1836年(天保7年)に現在の位置まで、水路が掘り進められたのだと、「旧坂川の碑」に書かれていました。
この水路が、「坂川」です。
こうして1836年(天保7年)に現在の位置まで、水路が掘り進められたのだと、「旧坂川の碑」に書かれていました。
この水路が、「坂川」です。
国土交通省 関東地方整備局サイトより |
坂川を流山から松戸宿まで掘り進めていく途中で、江戸川との水位差を調整する必要があったとのこと。高低差が少ないため、江戸川の水位が上がると、坂川に水が流れ込んでいったのでしょう。そのため、1813年(文化10年)に、坂川への逆流を防ぐための樋門が作られたのだそうです。
樋門については、京都市のサイトで非常にわかりやすく説明されています。
京都市情報館より |
坂川流域については、江戸時代より前には、ほとんど人が住んでいない低湿地だったに違いありません。
1594年(文禄3年)に始まった利根川東遷で、江戸川(当時は利根川とも呼ばれていたようですが……)が整備され、新田開発が進んだのでしょう。それで、稲が水浸しにならないようにするための排水路が必要となり、坂川が誕生したという流れのようです。
ちなみに、市川市を流れていた内匠堀は、農業用水を確保するために掘られたという説があり、上流と下流で水を奪い合うような争いがあったと伝わっています。
一方の坂川は、水を押し付け合うような争いだったといえます。
坂川が、水害のほとんどない川へ生まれ変わったのは、1909年(明治42年)。請願が出てから、160年後のこととなります。
■参考資料
https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E8%B5%A4%E5%9C%A6%E6%B0%B4%E9%96%80/
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