房総半島の上にあるのが下総中山駅なのに、下にあるのが上総一ノ宮駅の件
千葉県市川市にはJR下総中山駅があり、長生郡にはJR上総一ノ宮駅があります。
どうして房総半島の上のほうが下総(しもふさ、しもうさ)で、下のほうが上総(かずさ)なのでしょうか。
話は一気に千年以上も前にさかのぼります。
『古語拾遺(こごしゅうい)』は、斎部広成 (いんべのひろなり)によって、平安時代初期の大同2年 (807年) に成立したとされています。古語(ふるごと)、つまり昔から伝えられている事柄の中で、抜け落ちていること(遺漏)を拾い集めたもの。古い伝承の記録です。
斎(忌)部氏は、中臣氏(後の藤原氏)と対立していたため、自分たちの一族の正当性を示すために『古語拾遺』を作成したのかもしれません。政治的な争いは、いつの世も絶えないものです。
その『古語拾遺』によると、日本の初代天皇である神武天皇(彦火火出見 ひこほほでみ)は、日向国、つまり今の宮崎県で生まれたそうです。
そして45歳のときに東征、つまり東の方向へ軍隊を出すことを開始。宮崎から大分、福岡、広島、岡山、大阪、和歌山と兵を進めていき、日本の中心と考えられていた中洲(ちゅうしゅう)つまり大和国(やまとのくに 今の奈良県)を征します。そして奈良県の橿原(かしはら)に宮殿を作り、天皇に即位したのだそうです。
神武天皇に命じられて実際に橿原宮の建築に当たったのが、天富命(あめのとみのみこと)。斎部氏の祖先です。
天富命は肥沃な土地を求めて、天日鷲神(あめのひわしのかみ)の子孫を率いて阿波国、つまり今の徳島県に行き、穀物や麻の栽培に携わります。
その後も土地の開拓のために、阿波の斎部氏の一部を連れて、舟に乗って移動し、たどり着いたのが千葉県館山市布良(めら)だったようです。
この地で良質の麻が栽培できたことから、麻の古語である「総(ふさ)」にちなんで総国(ふさのくに)と呼ばれるようになり、斎(忌)部氏が住んでいたところは阿波国にちなんで、安房郡(あわこほり)と名付けられました。
そして、総国の「総」と、安房国の「房」を合わせて「房総」となります。
海路で移動する際に、都から近い房総半島の下半分が上総国(かずさのくに、かみつふさのくに)、遠い上半分が下総国(しもふさのくに、しもつふさのくに)と呼ばれたわけです。
神武天皇が即位したのは、西暦で紀元前660年とされています。だとすると、かなり古い時代から上総・下総と呼ばれていたことになるでしょうね。
駅名の「下総中山」は、下総国の中山にあるからと考えられます。1871年の廃藩置県で地名は下総国ではなくなったものの、昔から親しまれていた名前が付けられたのでしょうか。
1895年に、総武鉄道の中山(なかやま)駅が開業。1907年に総武鉄道が国有化され、1915年に国鉄の下総中山駅という名前に変わります。
なお、神武天皇から第9代の開化天皇まで実在しないとされていて、諸説があり、何が真実かはわかりません。往々にして、その時代の権力者や勝者が都合よく、歴史書を書き残すものです。
ただ、私たち人間は、昔も今も物語が好きなんだなあと実感してしまいます。
※こちらは歴史の専門家ではないので、上記で誤りその他ありましたら、指摘してください。
○参考資料
千葉県サイト
https://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/kenminnohi/panel/panel1.htmlhttps://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/kenminnohi/panel/index.html
ウィキペディア 下総中山駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%A7%85#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
どうして房総半島の上のほうが下総(しもふさ、しもうさ)で、下のほうが上総(かずさ)なのでしょうか。
中山法華経寺の仁王門 |
話は一気に千年以上も前にさかのぼります。
『古語拾遺(こごしゅうい)』は、斎部広成 (いんべのひろなり)によって、平安時代初期の大同2年 (807年) に成立したとされています。古語(ふるごと)、つまり昔から伝えられている事柄の中で、抜け落ちていること(遺漏)を拾い集めたもの。古い伝承の記録です。
斎(忌)部氏は、中臣氏(後の藤原氏)と対立していたため、自分たちの一族の正当性を示すために『古語拾遺』を作成したのかもしれません。政治的な争いは、いつの世も絶えないものです。
その『古語拾遺』によると、日本の初代天皇である神武天皇(彦火火出見 ひこほほでみ)は、日向国、つまり今の宮崎県で生まれたそうです。
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神武天皇は、長髪でひげを生やしていたと考えられているようですね |
そして45歳のときに東征、つまり東の方向へ軍隊を出すことを開始。宮崎から大分、福岡、広島、岡山、大阪、和歌山と兵を進めていき、日本の中心と考えられていた中洲(ちゅうしゅう)つまり大和国(やまとのくに 今の奈良県)を征します。そして奈良県の橿原(かしはら)に宮殿を作り、天皇に即位したのだそうです。
神武天皇に命じられて実際に橿原宮の建築に当たったのが、天富命(あめのとみのみこと)。斎部氏の祖先です。
天富命は肥沃な土地を求めて、天日鷲神(あめのひわしのかみ)の子孫を率いて阿波国、つまり今の徳島県に行き、穀物や麻の栽培に携わります。
その後も土地の開拓のために、阿波の斎部氏の一部を連れて、舟に乗って移動し、たどり着いたのが千葉県館山市布良(めら)だったようです。
この地で良質の麻が栽培できたことから、麻の古語である「総(ふさ)」にちなんで総国(ふさのくに)と呼ばれるようになり、斎(忌)部氏が住んでいたところは阿波国にちなんで、安房郡(あわこほり)と名付けられました。
そして、総国の「総」と、安房国の「房」を合わせて「房総」となります。
海路で移動する際に、都から近い房総半島の下半分が上総国(かずさのくに、かみつふさのくに)、遠い上半分が下総国(しもふさのくに、しもつふさのくに)と呼ばれたわけです。
神武天皇が即位したのは、西暦で紀元前660年とされています。だとすると、かなり古い時代から上総・下総と呼ばれていたことになるでしょうね。
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千葉県紹介パネル 千葉県サイトより |
駅名の「下総中山」は、下総国の中山にあるからと考えられます。1871年の廃藩置県で地名は下総国ではなくなったものの、昔から親しまれていた名前が付けられたのでしょうか。
1895年に、総武鉄道の中山(なかやま)駅が開業。1907年に総武鉄道が国有化され、1915年に国鉄の下総中山駅という名前に変わります。
なお、神武天皇から第9代の開化天皇まで実在しないとされていて、諸説があり、何が真実かはわかりません。往々にして、その時代の権力者や勝者が都合よく、歴史書を書き残すものです。
ただ、私たち人間は、昔も今も物語が好きなんだなあと実感してしまいます。
※こちらは歴史の専門家ではないので、上記で誤りその他ありましたら、指摘してください。
○参考資料
千葉県サイト
https://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/kenminnohi/panel/panel1.htmlhttps://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/kenminnohi/panel/index.html
ウィキペディア 下総中山駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%A7%85#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
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