市川駅南口アーケード街を巡る時間旅行 その15 生業と商店街との関わりを振り返る

大正中期から栄えたといわれている大門通り沿いの商店街


 時代をさかのぼると、20世紀の前半に生業を支えていたのは商店街だったといえそうです。

 生業は、身の丈起業。自分ができる範囲で、自分や家族が働き手となって仕事を行い、生活費を稼ぐという働き方です。このように規模が小さい分、不安定な働き方でもありました。新しい商売に手を出しては、数年で失敗。事業をやり直すというケースが多かったわけです。

 そんな生業を組織化して、商売のやり方を教え合ったり、地域コミュニティと結び付けたり、共同で必要な物を購入したりしたのが、商店街のもともとの役目でした。


 生業については、今と状況は変わらないのではないでしょうか。そう感じてしまうのは、私自身が身の丈起業で店舗経営を1年で挫折した経験があるからかもしれません。

 一方、商店街はというと、JR市川駅南口近辺でもシャッターが下りっぱなしの店舗があちこちにあり、一部を除いてはさびれてきている印象です。

 消えてしまった商店街もいくつかあります。それは再開発と関係しているかもしれません。ただ、再開発がなかったとしても、消えてしまう運命だった可能性もあり、この点は慎重な検証が必要です。


 また、第二次世界大戦後の労働人口が激増したときには、完全雇用を目指して、女性の非労働化、つまりは専業主婦化が国の方針として進められました。そして生業という零細小売商が集まる商店街が保護されました。要は企業で雇われなかった人でも生業を持つことで、国の形としては完全雇用に近づいていったということ。

 そして高度成長期には、政策としては数々の矛盾を抱えながらも、右肩上がりの経済発展が目くらましになったというか、多くの国民は矛盾などお構いなしにひたすら働き続けました。


 大きくなっていったひずみが、海外との貿易摩擦として、またバブル崩壊で現れます。規制緩和で零細小売商はそれまでの商習慣が維持できなくなり、郊外にはショッピングモールが出現。こうして商店街がさびれていきます。


 さらに、少子高齢化が進んで社会保障制度がきしみ、女性も高齢者も働かなければ経済が回せないのが、今の日本。

 生業と商店街はどう変化していくのでしょうか。


 今回は、『商店街はなぜ滅びるのか』(著/新 雅史、光文社新書)、『商店街はいま必要なのか』(著/満園 勇、講談社現代新書)をもとに、生業と商店街の歴史を振り返ります。

 

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 20世紀前半の第一次世界大戦(1914~1918年)後に、農民層の減少と都市人口の急増が起こりました。都市に流れ込んできた人々の多くは、雇用されることなく、「生業」と呼ばれる零細自営業になりました。

 この時期、以下のように日本の経済は大きなダメージを受けていました。学校の教科書にも、これらの出来事は載っていましたね。

1918(大正7)年 米騒動
1923(大正12)年 関東大震災
1927(昭和2)年 昭和金融恐慌
1930(昭和5)年 昭和恐慌


 昭和初期の不況で、経済的に苦しむ農民の中には、家族で都会に移住する人たちが現れました。しかし、当時の人事システムや制度などの関係で企業に彼らは雇用されることがなかったために、小売業に参入したのです。


 上の絵は、1928年(昭和3年)に発表された「千葉縣市川町鳥瞰」の一部。市川駅の周辺にびっしりと小さな商店が並んでいるのがわかりますね。

 こうして素人の零細小売商が急増した結果、物価が激しく変動したり、粗悪品が流通したりして、さらには悪徳小売業も生まれることになります。
 典型例が米騒動。米の買い占めを行っている悪徳業者に腹を立てた主婦たちの運動が、全国に広まっていったもので、打ちこわしにまで発展しました。

 このように、社会は不安定になっていきました。

 消費者は自己防衛のために協同組合を、そして行政も物価安定のために公設市場を設立しようして、零細小売商の反発を生みました。同時に、当時成長していた百貨店も、零細小売商から不買運動、投石運動など、激しい抵抗を受けていました。

 その一方で、商売の素人である零細小売商は簡単に事業に行き詰まり、多くが1~4年の寿命しかなかったわけです。日用品や食料品関係の商売に手を出しては、すぐに資金繰りがうまくいかなくなって失敗、ということを繰り返していました。

 当時の商業学者は、零細小売商が営利を求める「企業」ではなく、家族を養う「生業」でしかないから、商売がうまくいかないのだと分析していました。


資金が乏しい。
営利をきちんと追求しない。
専門性に欠けている。


 こうした零細小売業の問題点を克服するには、小売商を組織化して専門性を高めればよいという話になりました。そのために考え出されたのが、異業態を連携させる商店街だったのです。

 商店街として組織化されれば、一つの地域でいろいろな品物を買うことができて消費者の利便性が高まる上、小売商は共同で商売に必要な物(買い物袋など)を購入したり、資金を調達したり、宣伝を行ったりすることができます。こうして、百貨店とも対抗することもできるわけです。

 また、零細小売業者があれこれ手を出して失敗することを避けるため、専門性を身に着ける必要があります。それには、個々にバラバラと商売するよりも、連帯感を持ったほうが都合がよかったのです。


 このように、商店街は地域社会を安定させる組織体だったということです。


 新 雅史氏は「商店街はまったく伝統的な存在ではない。現存する多くの商店街は二〇世紀になって人為的に創られたものだからである。」と述べています。


 そして第二次世界大戦(1939~1945年)後、物価の高騰や闇物資の流通による混乱で、またも零細自営業が増えました。

 このときは、「地域社会を安定させる組織体」という目的とは違った形で、商店街関係の法整備が進んだのです。

 戦後の日本では、次の理由で労働力人口が急増していました。
〇敗戦後、戦地からの引き揚げ者が大量に労働市場に流入していた
〇1946(昭和21)年の農地改革によって自営農民が急増したら、耕地が細分化されたため、農業経営の参画者が長男だけに限られ、農村の二男三男が労働市場に大量に参入した

 こんな状況で、日本政府は完全雇用を実現させようとしました。
 1955(昭和30)年の選挙では、各党が以下のような公約を掲げています。
民主党「長期総合経済計画により完全雇用の実をあげる」
自由党「経済の拡大と国土開発により雇用を増し、三十二年度までに失業者を解消する」
社会党「長期計画をたて、初めの二年間で完全失業を一掃、五年目には三百万人の潜在失業を近代産業に吸収する」

 その理由は、完全雇用を政策の中心に据えることが先進国であるための条件と見なされたからです(「経済自立5ヵ年計画」の成立(5一完)浅 井良夫

 そして政府は、次の方法で労働力人口を抑制しようとしました。
〇海外移民の促進
〇家族計画による出産数の抑制
〇社会保障による女性・高齢者の非労働力化


 この流れの中で生まれたのが「近代家族」で、家族社会学者の落合恵美子氏は8つの特徴を挙げています。
1.家内領域と公共領域の分離
2.家族構成員相互の強い情緒的関係
3.子ども中心主義
4.男は公共領域、女は家内領域という性別分業
5.家族の集団性の強化
6.社交の衰退とプライバシーの成立
7.非親族の排除
8.核家族 


 加えて、完全雇用を実現させるために、零細小売業が労働人口を吸収する必要があったのです。企業に雇用されなかった人のセーフティネットとしての役割だと、私は感じました。


 高度成長期には零細小売商が政府から保護され、1960年代には生産性の低い問屋や小売業者が規制で温存されていました。

 そんな中で生まれたのが、スーパーマーケットという新たな業態です。

 1957(昭和32)年にダイエーを創業した中内功氏は、当時の流通の非合理性を批判していました。これまでの小売業者は、生産者がつけた価格のままで消費者に商品を受け渡すだけでした。国から保護されているだけでなく、マージンなど製造業との依存関係で維持されていたと指摘しています。

 そうではなく、消費者が、自分で支払っていいと思う額で価格を決めるべきではないかと。「よい商品をできるだけ安く」「価格破壊」「バリュー主義」というキャッチフレーズで、スーパーマーケットは拡大していきました。



 そして、高度成長期を経て、サラリーマン層がどんどん厚くなっていきました。そして日本型経営で働くサラリーマンが富を稼ぎ出し、それを零細自営業に分配しているというイメージが持たれるようになりました。税負担についても、サラリーマンが自営業者や農家よりも大きいという批判を表しているのが「クロヨン問題」。

 一方の零細小売商は、政治に圧力をかけ、スーパーマーケットなどの大型小売店の出店を阻もうとしました。
 1973(昭和48)年には「大店法」(「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」)が公布。店舗の出店や増築に際して、地元の商業関係者との事前協議を義務付けたのでした。
 要は、「出店調整」という名目で、商店街の近くにスーパーマーケットを作れないようにしたということ。「スーパーマーケットでも買い物をしたい」という消費者のニーズは、無視されていたわけです。

 サラリーマン、消費者からの反発から、零細自営業は日本の富に寄生しているというイメージを持たれるようになってきました。

 1973(昭和48)年のオイルショックの後は、日本は多額の貿易黒字を出して一人勝ちと言われたのですが、同時に日米貿易摩擦などが悪化。批判を浴びることになります。「日本人は働くばかりで、消費をしていないからこのような事態になった」という論も出てきたのです。

 そして、海外からの輸入を拡大させろという圧力もあったのですが、ネックとなったのは、マージンが絡んだ 製造業-問屋-零細小売商という日本の流通構造でした。

 1980年代以降に、「大店法による商業調整は、WTO(世界貿易機関)違反」などというアメリカからの圧力で、政府は小売規制を緩和し、消費者の利益を優先するようになります。これは当然、零細小売商にダメージを与えます。

 そのため、零細小売商は財政投融資の資金(政府系金融機関の融資)を求めたのです。1987(昭和62)年から中小企業庁は補助金のバラマキを始めたとのこと。

 結果として、商店街と零細小売商は融資頼みの経済システムになるわけです。

 地方の建設業は公共事業頼みだといわれていますが、同様に、商店街は政府系金融機関の融資に依存しているということです。


 また、1985(昭和60)年のプラザ合意で急激な円高が進行。製造業は生産拠点(工場など)を、割安な海外に移転させました。

 そして、工場跡地など塩漬け状態だった土地には、1991(平成3)年のバブル崩壊後にショッピングモールが建設され、公共事業で道路が整備されました。こうして「週末に、車に乗って郊外のショッピングモールに買い物に行く」という生活スタイルができてきたことも、商店街にダメージを与えます。


 さらに、零細小売商のコンビニエンスストア化が進みました。食料品から日用品まで扱うコンビニが商店街の中に生まれることで、「利便性が高い」という商店街の存在意義が失われていきました。

 

 そして、戦後の「近代家族」化によって、事業が継続しにくくなっています。

 江戸期だと、家業、つまり自営業で跡取りがいなかったら、家族以外の人材(番頭など)に継いでもらっていました。これを社会学で「イエ原理」と呼ぶそうですが、近代家族で経営していると子どもがいない、あるいは家業を継ぎたがらない「跡継ぎ問題」が発生するのです。


 だったら、生業レベルの零細小売商も、商店街も、時代の流れとともに消えてしまえばいいのでしょうか。20世紀前半に生まれた歴史の浅いものだし、もう必要ないと割り切れるでしょうか。


 そう単純な話でもなさそうです。理由の一つは、商店街が地域コミュニティを形成する「まちづくり」の担い手となっているからです。祭りなどのイベントは、商店街が中心となって行われていることが多く、商店街が消えると地域のつながりも消えてしまうと危惧する人が少なくありません。

 「買い物はスーパーやコンビニ、ショッピングモールでするのだけど、商店街は残っていてほしい」というのが、現代人のニーズのようです。つじつまがありませんね。

 満園 勇氏は「『消費者』とは誰のことであり、『消費者の利益』とはどのような利益なのでしょうか?」と問いかけています。

 消費者イコール働き手であるわけですが、消費者の論理で「もっと安く、もっと便利に」を追求し過ぎると、自分たちが働く選択肢は減ります。大企業に勤めるか公務員になるか、はたまた生活保護かというように極端になってしまうのです。
 だとしたら、生業は消えます。

 自分たちの働き方の選択肢を残すために、どのように消費するか、つまりは暮らし方を見直すということも必要かもしれませんね。

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