市川 芸妓ものがたり 5 ~町の変貌と生業の移り変わり

  市川での芸妓という生業は、日本陸軍と密接な関係にありました。

 1885年(明治18年)に、国府台には陸軍教導団が設置されました。陸軍教導団が廃止された後、1899年(明治32年)には野砲兵第2旅団が、1920年(大正11年)には野砲兵第2旅団の代わりに野戦重砲兵第3旅団(野戦重砲兵第1連隊、野戦重砲兵第7連隊)が配備。加えて騎砲兵大隊、高射砲連隊、独立工兵連隊などが置かれたことがあるそうです。

 旅団は陸軍を編成する際の単位で、このほかに師団や連隊といった単位があります。旅団は1,500~6,000名の兵員で構成されています。

 日本各地で徴兵され、野砲兵第2旅団などに配属された1,500~6,000名もの成人男性が、国府台で生活していたのでしょう。



 こうした軍人相手のお店が国府台にできて、芸妓を呼んだ懇親会が盛んに行われたようです。

 そして、芸妓と関連の深い業種(三業)である料理屋(料亭)・待合茶屋・置屋(芸者屋)の組合である市川三業組合(国府台三業組合)は、1921年(大正 10年)にできています。

 1934年(昭和9年)の『市川市勢総攬』によれば、国府台には置屋が11軒、料理旅館が3軒、料理屋が10軒あったそうです。

 また、1928年(昭和3年)に描かれた『千葉県市川町鳥瞰』には、モンパリ、キリン、天国、宮川亭などカフェの記載もあります。「女給さんはみんな着物に長いエプロンして……。若い衆は、あそこはサービスが良いとか綺麗な子がいるとか言って通ってましたよ」という、1901年(明治34年)生まれの井上千輿次さんの談話がありました。

 カフェは男女の社交場。

 ところで、NHK連続テレビ小説「エール」の主人公は、明治42年生まれの作曲家。このドラマの中でも、女給が登場します。

マイナビニュースhttps://news.mynavi.jp/article/20200512-1034684/より

 このドラマには芸者(芸妓)も登場。

NHK https://www.nhk.or.jp/yell/cast/fujimaru.htmlより

 こうして国府台は「軍隊の町」として発展していきますが、周辺は「みんな田んぼ」で「市川駅付近だって、ホームから眺めると、江戸川の鉄橋まで家がねぇんだよ」と井上さん談。

 以上のことから、市川が町全体として発展したわけでなく、軍人のいる範囲だけ、しかも軍人相手の産業だけが特別に発達していたのだと推測できます。

 ですから、終戦を迎え、軍が解体されれば、こうした産業がしぼんでいくのは想像に難くありません。

 もしかしたら、国府台の産業は軍に依存し過ぎていた可能性もあります。向島や浅草、京都、箱根、東山温泉などでは、今でも芸妓が活躍しています。こうした場所では、芸妓を呼んで遊ぶことが文化として定着したのでしょうが、市川はそうではありませんでした。

 町から軍人が消えるとともに、料理屋・待合茶屋・置屋も次第になくなっていき、芸妓も含めて生業が成立しなくなったわけです。

 国府台に軍を置いたのは、明治政府、つまり官です。官の力は強大で、一気に町を変えることも可能なのですが、反面、民間を依存させることにもつながるかもしれません。

 これは今の状況にも当てはまるでしょう。

 コロナ禍の中、市川市が約20億円の予算で「Paypay決済で10%還元キャンペーン」を行っています。もちろん、消費者としては有り難い話ではありますが、キャンペーン終了後に一気に消費が冷えて、地域経済が停滞する可能性もあるでしょう。

 地域コミュニティで「自助・共助・公助」という言葉がよく使われます。税金を投入して地域経済を活性化するのは一時しのぎに過ぎず、民間の私たちが文化、そして産業を作っていくことが生業の継続へとつながるのだと、市川の芸妓の話を追っていく中で感じています。


□参考資料

『市川市国分周辺の変遷 聞き書き 資料編』松岡博子

『幻の大学校から軍都への記憶』田中由紀子 萌文社

『日本オーラル・ヒストリー研究』 第 12 号 (2016 年 9 月)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjoha/12/0/12_101/_pdf/-char/en

国府台 (市川市) Wikipedia



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