勝手にパワースポットその15 葛飾八幡宮

葛飾八幡宮
〒272-0021 千葉県市川市八幡4丁目2−1


 葛飾八幡宮は、「八幡」と名の付くとおり、祭神は誉田別命(第15代天皇である応神天皇、飛鳥時代以前の人物で実在しない可能性もあり)です。
 誉田別命を祭る神社は「八幡宮」「八幡神社」「八幡さま」などと呼ばれ、全国約11万の神社のうち約4万4000社と最多。

 日本では、6世紀末から天皇を中心とした集権国家が整備されてきました。
 そして8世紀になると、各地に「国」が置かれました。この「国」とは行政区画で、現代の都道府県に当たるといえそうです。
 さらに国は郡に、郡は里(郷)に、細かく区分されています(国郡里制)。

 葛飾八幡宮が創建されたのは下総国葛飾郡で、平安時代中期の寛平年間(889〜898年)のことでした。
 「下総国」とは、現在の千葉県北部と茨城県西部、東京都東部に当たり、「葛飾郡」については「子ども葛飾区史」のページで説明されています。
子ども葛飾区史より

●子ども葛飾区史
http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-3-1-23.html

 「寛平」は第59代天皇である宇多天皇の治世の元号です。
 平安時代といえば、藤原氏。天皇と縁戚関係を持って、権力を握り、政治を思うがままにしていました。

 宇多天皇は藤原氏のやり方に不満を持っていたようで、自分の考えをもとに政務に当たろうとしていたようですね。
 そして、学者だった菅原道真を重用したとのこと。

 余談ですが、菅原道真は宇多天皇の子である醍醐天皇によって、福岡の大宰府に左遷されます。
 これは藤原氏の陰謀。
 その後、京の都が災害に襲われ、道真の祟りだとされ、その怒りを鎮めるために「天神様」として崇拝するようになったのだとか。
 漫画の『陰陽師』で描かれる菅原道真が、ほぼほぼ化け物で、ちょっとかわいそうな気になりました。悲しく、切ない人なのに……
 ただ、当時の京の人々にとっての菅原道真の存在は、化け物だったのでしょうね。
もっとグロテスクに描かれた絵もありました(涙)

 話は戻って、宇多天皇によって京都の石清水八幡宮から勧請され、葛飾八幡宮が建立されたようです。

 奈良時代には、仏教による国家鎮護のため、各国に寺院が建立をされました。
 今の市川市国分には、下総国分寺が建てられたとのこと。

 葛飾八幡宮も同じ趣旨で建立されたのでしょうか。

 平安時代は、中央から派遣された国司(中央政府から任命され赴任した有期任期制の官僚)などの役人が土着し、在地領主や富豪農民などの新興勢力が誕生し始めたそうです。

 藤原氏が力を持っていると、藤原氏の都合のよいように国司が派遣され、領民から定められた以上の税を取り立てて藤原氏にわいろを贈ることもあったようですね。
 腐敗。

 宇多天皇は課税方式を変更したり、中央と地方の癒着を防ぐ法令を出したり、地方政治に目を向けた改革を行ったとのこと。
 葛飾八幡宮はそのような流れの中で建立された模様。

 税を運ぶ際に強盗を働く集団が関東地方にはいたようで、治安は悪化していたようです。
 葛飾八幡宮が建立された数年前の875年には反乱が起きていて、下総国の寺が焼かれたのだそうです。
 そして建立と同じ年の898年に、桓武天皇の血を引く平高望(高望王)が上総国に派遣されました。
 中央の政治の力が及ばなくなって荒れてしまった関東を鎮圧するために、こうした人事が行われるとともに、葛飾八幡宮をわざわざ建立したのではないでしょうか。

 ところが、平高望の孫が、平安時代の中期の武将で「平将門の乱」を起こした平将門(903~940年)でした。なんのために、宇多天皇は平高望を派遣したのやら。
 「新皇」と名乗って一時的に関東を支配下に収めた平将門と、葛飾八幡宮にはゆかりがあるようです。

 そして平安時代後期の治承4年(1180年)、平家との戦に敗れた源頼朝は安房国(房総半島南部)から下総国へと入って、葛飾八幡宮に参拝して願掛けをしています。後に社殿の改築をしたと伝えられています

 また、室町時代後期の武将である太田道灌(1432~1486年)が社殿を修復したとのこと。

 それから、安土桃山時代の天正18年(1590年)、徳川家康が関東移封によって江戸に入り、 その翌年に家康から葛飾八幡宮は朱印地52石を寄進されたのだとか。
 源頼朝を尊敬した家康だからといえそうです。

 葛飾八幡宮がある地域は、もともとは東京湾に面した砂浜と、真間の入江の湿地帯に挟まれているため、耕地には向かなかったようです。
松と砂浜の土地だったようです(イメージ写真はクルシュー砂州)

葛飾八幡宮の辺りはビオトープのような土地だったと推測できます

 今の国道14号線の周辺に松の大木が見られるのは、砂浜だった名残と思われます。

14号沿いの神社のあちこちで松が見られます

 江戸時代の寛保2年(1742年)に八幡で生まれた川上善六は、この土地に合った特産品を作り出すために梨栽培を思い立ち、梨栽培が盛んである尾張美濃を訪れ、調査。八幡で梨栽培を広め、「八幡梨」として市場に出したそうです。

 今昔マップを見ると、明治の初め(1896~1909年)の葛飾八幡宮周辺は果樹園と針葉樹林。
 梨と松だらけだったのでしょうね。

●今昔マップ
http://ktgis.net/kjmapw/index.html

 明治45年(1912年)には八幡町が中心になって耕地整理を行い、真間川が改修され、スゲなどの密生していた菅野にも耕地が広がり始めたとのこと。

 そんな葛飾八幡宮の周辺も、今では梨も松も田畑もまったく面影のない住宅街ですね。

 毎年9月15日10:00から例大祭が行われ、同じ時期に「八幡様の農具市(ボロ市)」が立つのだそうです。
 参道に、農具や料理用具などの露店が並んで、にぎわうのだとか。

 「参道に市が立つなんて、ちょっと不思議だな」と思ったのですが、どうやら大勢の人々が参拝で集まる中、持っていた物の物々交換が始まり、やがて市に変化したようです。
 寺社の参道に門前町ができることと同じような現象かもしれません。

 ボロ市のほかにも、ハンドメイド作品などが並ぶ市(フランス語だとマルシェ)が開かれているようです。
 「やわたマルシェ」「八幡ふれあい手づくり市」などが近隣住民で企画されているとのこと。

 近年では寺にカフェが併設されたり、神社でローカルフェスが開催されたり、地域コミュニティの中での寺社の存在が変化している気がしていました。
 ただ、もともと日本人は神仏が大好きだったのに、明治維新の神仏分離でおかしな権威化を行ってしまい、距離ができたのではないかと。

 葛飾八幡宮の神様たちは、1000年以上にわたって、人々の争いも、苦難も、努力も、喜びも、この地で見守り続けてきたのでしょうね。


〇参考資料
葛飾八幡宮ホームページ
市川市ホームページ
『図説 市川の歴史 第二版』(市川市教育委員会)
ウィキペディア
一宮神社農具市 http://snow-country.jp/?a=eventdetail&id=1619
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