明治初期に江戸川の中央にあった島はなぜ消えたのか問題

 明治初期から中期にかけて作成された「迅速測図」には、江戸川の中央、河川敷のビオトープの付近に島(中州)が描かれていました。

迅速測図
 ただ、1903(明治36)年に測図した地図では消えています。
島が消えている1903年の地図(左、今昔マップより)


 明治初期に存在した島は、「天明(てんめい)大噴火」と関係があったのかもしれません。
 今回は、江戸川に島ができた理由と消えた理由について検討してみました。


島があったと思われる場所(写真左がビオトープ)



 江戸時代の1783年8月5日に、群馬県と長野県にまたがる浅間山が噴火しました。

浅間山(2023年1月撮影)


 天明3年の出来事だったことから「天明大噴火」と呼ばれ、たくさんの死者が出ました。犠牲になった人馬が江戸川にも流れてきて、下小岩村(現在の江戸川区)に漂着しました。江戸川区東小岩の善養寺の不動門の前には、「天明三年浅間山噴火横死者供養碑」が建てられています。
家や人、家畜などが利根川を流される様子(災害史に学ぶより)



 天明大噴火の影響はその後も続きました。近くを流れる川に土砂や岩石、泥が積もり(河床上昇)、群馬県を流れる吾妻川に水害を発生させました。3年後の天明6年には、利根川水系に洪水を引き起こしています。
 1822年頃、利根川と分岐する江戸川の起点で、「棒出し」が築かれます。棒出しは、両岸を石枠や杭で固めて川幅を狭くすることで、江戸川に流入する水量を減らす役目を果たします。
関宿(千葉県野田市)関所付近の復元ジオラマで、川幅を狭めるように半円形に飛び出している部分が棒出し(県立関宿城博物館


 明治に入り、1896(明治29)年に河川法が制定され、大きな河川の治水工事が政府によって計画されました。その一環で、利根川水系である江戸川の改修工事が行われたのです。

 冒頭で紹介した、迅速測図に描かれた島は、噴火やその後の水害などで流されてきた土砂が積もってできたのだと推測できます。そして、改修工事の過程で、島を形成した土砂が取り除かれたのでしょう。すでに島を取り除くことが計画されていたため、1903(明治40)年の地図には描かれなかったとも考えられます。

 1910(明治43)年には、梅雨前線に台風が入ってきて、関東は大洪水となりました。「明治43年(しじゅうさんねん)の大洪水」「庚戌(かのえいぬ)の大洪水」とも呼ばれています。埼玉県の平野部は全域で浸水し、東京都や千葉県でも大きな被害がありました。
埼玉県で浸水した地域(明治43年の洪水 ~明治政府を動かした大洪水~より)


 この大洪水を受けて、江戸川改修工事は1911(明治44)年に改訂され、江戸川に流す水の量を増やすこととなり、川幅を拡げる必要が出てきました。こうして江戸川放水路開削・河道拡幅・江戸川流頭部の付け替えが行われました。

江戸川改修工事の歴史

1783年8月5日 天明大噴火
1786年 利根川水系で大洪水

1896(明治29)年 河川法制定、利根川改修計画
1900(明治33)年 利根川改修工事着工
1910(明治43)年 明治43年(しじゅうさんねん)の大洪水
1911(明治44)年 利根川(江戸川)改修工事計画改訂
1914(大正3)年12月 江戸川改修事務所開設(千葉県野田市中野台地先)
1915(大正4)年2月 江戸川改修工事に着手
1916(大正5)年 江戸川放水路着工
1919(大正8)年 江戸川放水路竣工
1927(昭和2)年 関宿に水門・閘門(こうもん)設置
1943(昭和18)年 江戸川水門(篠崎水門)・閘門設置
1947(昭和22)年 カスリーン台風で利根川が氾濫
1970~1972(昭和45~47)年 江戸川水門改築
1972(昭和47)年 江戸川の堤防工事が終了
1979(昭和54)年3月 三郷放水路完成
1992(平成4)年8月 綾瀬川放水路暫定通水式
2006(平成18)年6月 首都圏外郭放水路完全通水式
首都圏外郭放水路ホームページより

2015(平成27)年11月 江戸川河川事務所 改修着手100周年

※閘門とは、水位の異なる河川や水路の間を、船を上下させて通らせる施設
閘門の仕組み
閘門の仕組み(淀川大堰閘門より)


■主な参考資料
江戸川 江戸川区郷土資料室見学のしおり

江戸川河川事務所
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