船橋市にあるのに市川市の地名がついた「中山競馬場」と、かつて存在した「市川市若宮住宅」の関係

  中山競馬場の住所は、千葉県船橋市古作1-1-1。
 しかし、「中山」は市川市の地名です。

 船橋市にある競馬場なのに、どうして市川市の地名がついているのでしょうか?

 ウィキペディアによると、もともとは松戸にあった松戸競馬場が、1919(大正8)年に東葛飾郡中山村大字若宮(現:市川市若宮)へ移転し、翌年に中山競馬場という名前になったとのこと。
 1927(昭和2)年に、今の場所に馬場(乗馬を行うための土地)が移されたようです。このときには「古作競馬場」と改称しなかったのですね。

 中山競馬場の近くには、かつて「市川市若宮住宅」が存在しました。今、「市川市若宮住宅」と検索しても、市川市若宮の一戸建ての情報ばかりがヒットするだけです。

『昭和の東京郊外 住宅開発秘史』より



 市川市若宮住宅は、1941(昭和16)~1946(昭和21)年に住宅営団によって作られた住宅地です。中山競馬場の近くに作られたものの、競馬ではなく、戦争が関係しています。
1932(昭和7)年頃の中山競馬場周辺(今昔マップより)

1945(昭和20)年頃の中山競馬場周辺(今昔マップより、一部改変)



 1939(昭和14)年に、第二次世界大戦が始まります。戦争が激しくなり、軍需工場で働く多くの人々のために住宅が必要になりました。住宅を大量に供給するため、住宅営団が設立されたのです。
 営団は「経営財団」の略語で、戦争のために生み出された、公でも私でもない特殊法人です。営団は、戦後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の方針で廃止されました。一部の業務は、公団・公社に引き継がれました。
 住宅営団は、内務省が1924(大正13)年に設立した「同潤会」を吸収する形でできました。また、「日本住宅公団」については、1955(昭和30)年に設立されています。同潤会→住宅営団→住宅公団という流れとなります。

 戦時中の1944(昭和19)年に中山競馬場は閉鎖されて、陸軍軍医学校中山出張所、立川航空隊(軍需品集積所)、東部第5部隊駐留地、軍管轄の自耕農場などとして活用されたとWikipediaには書かれていました。
 こうした軍事目的の施設で働く人のために、営団が市川市若宮住宅を作ったと考えられます。

 環境省のサイトには、次のように書かれていました。

 【千葉県内における陸軍軍医学校施設に係る情報】
・陸軍省の公文書によれば、昭和19年4月6日に千葉県市川市に陸軍軍医学校中山出張所が存在していたとあり、楢葉に関する情報は確認されていない〔A6〕。

 文中の「楢葉」は地名で、現在は袖ケ浦市の北部です。ここにあった陸軍軍医学校の分室では、学生実習用にイペリット(毒ガス、マスタードガス)・ルイサイト(毒ガス)・ホスゲン(毒性の強い窒素性のガス)など、いわゆる化学兵器が保管されていたとのこと。陸軍軍医学校の存在していたところに毒ガスなどが残っているかもしれないので、環境省で場所を把握していると考えられます。

 営団住宅の特徴として、住宅地の中央に公園があり、内部には銭湯や医院などがあるという点。
 こうした特徴を手掛かりに、市川市若宮住宅の場所を航空写真で探すと、あっさりと見つかりました。若宮児童公園を中心に、道路がまっすぐに伸びて、銭湯もあります。

 営団は、大量の住宅を、短期で、安く作る必要があったため、質はよくなったようです。かつて「市川市若宮住宅」だった住宅地には98戸が建てられたと記録されていますが、営団時代に建てられた家は残っていないでしょう。

■参考資料

Powered by Blogger.