1300年前の国府台の断崖絶壁を再現してみたいのだ 3 台地はもっと大きく、崖はもっと荒々しかったのだ

 市川市内には、「欠真間」という地名があります。
 1923(大正12年)に刊行された『東葛飾郡誌』には、欠真間について以下の記述があるとのこと。

同郡眞間村等の岡陵決崩し、沈澱して遂に岡をなし、文明年間諸方の農民漸々移住して荒蕪の地を開拓し、始めて村勢を成し名くるに真間村の泥土決崩して村を成したりと云ふを以って、欠真間村と唱へたり
 

http://www.pref.chiba.lg.jp/shizen/shingikai/gyoutoku/documents/gyoutokuwg8tuikasiryou.pdf

http://www.library.pref.chiba.jp/nanohana/archive/guide_07.html


 文明年間は1469年から1487年までの期間で、室町時代。1467年に応仁の乱が始まっているので、戦国時代とも呼ばれています。

 昔から国府台の台地が「崖崩れが頻繁に起こる場所」として、地域の人々に認識されていたと思われます。そして戦国時代の前には、国府台の崖(「同郡眞間村等の岡陵」)が大きく壊れるという出来事があったのだと推測できます。


 手児奈が生きていたと考えられる1300年前の奈良時代と、現在とでは、国府台の地形はかなり変化していたのでしょう。

 いつ頃かはわかりませんが、戦国時代が始まる前に、大きく崖崩れが起こったと考えられます。

 戦国時代の1478年、太田道灌が国府台に仮陣を築いて、翌年に国府台城が築かれます。おそらく、地形を生かした築城が行われ、「崖を削る」といったことはなかったかと。

 そして、前回述べたように、明治以降に、かなり国府台の地形が変化したのでしょう。


 1300年前の崖は現在よりもかなり大きく、崖崩れがよく起こっていたので、土の層がむき出しになっていたはずです。その様子は、江戸時代の浮世絵にも描かれていました。
 茨城県龍ケ崎市のサイトに、地層がむき出しになった斜面の写真がありました。実際の様子は、こんな感じだったと推測しています。

茨城県龍ケ崎市サイトより


 現代とは違って、当時は人口がかなり少なかった、おそらく6%未満だったので、崖の下など危険な場所にわざわざ人々は住まなかったはずです。



 また、真間などの低地は水浸しになりやすい場所でした。江戸川沿いの堤防も、東京湾の防波堤や堤防もなかった頃です。嵐や潮の満ち引きなどの影響を大いに受けたでしょう。

 水浸しになりにくい場所はどこだったのか。

 今の真間周辺を歩いてもイメージがつかみにくいのですが、市川3丁目にある京成電鉄国府台駅周辺は、ちょっと高くなっています。

 また、同じく市川3丁目にある安国院は、1313年、つまり鎌倉時代に創建したというネット情報を拾いました(今度、きちんと確認します)。

 こうしたことから、古い時代から、市川砂州の上には民家が点在していた可能性が考えられます。


 市川砂州には、下の写真のように、松が生い茂っていたのでしょう。

京成電鉄菅野駅近辺

 「諸説あり」ではありますが、市川砂州に古代東海道の駅家(うまや)である井上(いかみ)駅があったといわれています。

7世紀末から771(宝亀2)年の東国の駅路(「神奈川の東海道」より)


 国府台の台地の江戸川沿いでは、水と風(西から東へと吹く偏西風)の影響を受け、崖崩れがひどかったと思われます。

 では台地の南側はというと、崖崩れは起こるものの、江戸川沿いほどひどくはなかったのではないでしょうか。根拠は「利根川東岸一覧」で、南側の斜面には木々が生い茂っているからです。また、行基も崖崩れのリスクが高い場所には求法寺(今の真間山弘法寺)を建立しなかったはずです(それに、現存もしている)。

 東京都清瀬市郷土博物館のサイトにある斜面の写真を見て、こんな感じだったと推測しています。

清瀬市郷土博物館のサイトより

 こうした画像データをもとに、1300年前の国府台の断崖絶壁を再現してみたいと考えています。なお、『クラナリ』は学術研究とは無縁の、純粋にエンターテイメントの立場です。

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