勝手にパワースポットその28 御代院

 御代院

〒272-0824 千葉県市川市菅野2丁目14


 市川市内のあちこちに残る「将門伝説」。
 あくまでも伝説です。

 そして、将門伝説と絡んで由緒がちょっとトンデモと思われるのが、菅野のアーデル通り沿いにある御代院。案内板には、次のように書かれています。



御代院(みよのいん)
 伝えによると、天慶の乱(天慶三年・九四〇)のとき京都の菅野氏が、平将門調伏の志を抱いて、妻と共に関東に下り、この地に居を構えました。
 妻の容姿が美しいところから「御代の前」と称して将門の内室になり、将門の出城といわれる大野城に入りました。そして内情を探索して夫に知らせたところから大野の落城を早め、将門調伏に功績をたてたといいます。
 その後、夫妻は共に剃髪してこの地に留まり、将門と戦で亡くなった将兵たちの後生を弔いながら世を去りました。夫妻の死後、里人はその志を哀れんで、墓標をたてて祀ったのが、この御代院ということです。
 後世、幾度か墓標が破損しましたが、そのつど里人の力によって建てなおされ、伝承と共に今日まで守り伝えられてきました。
 また、いつの頃からか風邪のときには、御代院から借りた茶碗で薬湯を飲むとご利益があるといい、回復のときに新しいものを添えて返す風習が広まりました。

 まず、「この地に居を構えました」。
 菅野という地名の由来は、この「菅野氏」と、菅という植物の2説があります。
 菅は、水辺や湿地帯に自生するカヤツリグサ科の多年草なのだそうです。菅がたくさん生えていた菅野。そんな湿地に、わざわざ家を建てるのかという疑問。

 次に、「将門の出城といわれる大野城」。
 市川市のサイトでも、大野城は「戦国時代に属するものと考えられています」と書かれていて、平将門の出城の可能性はさりげなく否定されていました。

伝承によると平将門が築いた下総西部を鎮圧するための出城であるということで、現在第五中学校敷地の北端にある小さな石の祠を、古老たちは「将門さま」と称して供養を続けています。しかし、現在の遺構からは将門の時代と結び付けることはむずかしく、戦国時代に属するものと考えられています。果たして誰が構築した城郭であったかは現在のところ不明です。

 そして、939年(天慶2年)に、平将門はいわゆる「将門の乱」を起こすのですが、そんなときに、いくら見た目が美しいからといって、出自のよくわからない女性(御代の前)を妻に迎えるでしょうか。この頃には平将門は移動も多くて、腰を落ち着ける暇もなく、正室・側室もいるのに新たに妻を探すというのは、おかしな話です。
 
 さらに、京都からやってきた菅野氏夫妻が、この地にとどまったのも、謎。平将門は、朝敵ですが、地元では人気のリーダーだったからです。地元住民にしてみれば、「おのれ、よくも将門様を!!」という感情を抱くはずです。
 ましてや、妻である御代の前がスパイ行為を行ったとしたら、卑怯者として住民も嫌うでしょう。正々堂々と戦わないと!

 以上のことから、御代院の由緒については、将門伝説に美女、女スパイといった、庶民が大好きなコンテンツが詰め込まれて出来上がったものだと推測されます。


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