「真間の手児奈」当時の結婚のカタチ「妻問婚」

 「真間の手児奈」については、諸説があり過ぎるのですが、Wikipedia には次のような説が紹介されていました。

手児奈は舒明天皇の時代の国造の娘で、近隣の国へ嫁いだが、勝鹿の国府と嫁ぎ先の国との間に争いが起こった為に逆恨みされ、苦難の末、再び真間へ戻った。しかし、嫁ぎ先より帰った運命を恥じて実家に戻れぬままとなり、我が子を育てつつ静かに暮らした。だが、男達は手児奈を巡り再び争いを起こし、これを厭って真間の入り江に入水したと伝えられている。古くから語られていた伝説が、この地に国府がおかれた後、都にも伝播し、万葉集の歌人たち(山部赤人・高橋虫麻呂)の想像力をかきたてたとされている。
737年に行基がその故事を聞き、手児奈の霊を慰めるために弘法寺を開いた。現在は手児奈霊神堂に祀られている。また、亀井院には手児奈が水汲みをしていたとされる井戸が現存している。

 舒明天皇(593~641年)は、第34代天皇。ですから、手児奈は飛鳥時代の人ということです。

 飛鳥時代の結婚形態は、どのようなものだったのでしょうか。

 調べたところ、「妻問婚」とのことです。旺文社日本史事典 三訂版には以下の解説がありました。

妻問婚
つまどいこん

夫が妻の家を訪ねる古代の婚姻様式
通い婚ともいう。夫婦は別居し,子供は妻の家で育った。平安中期には妻方同居の婿取り,鎌倉時代になって夫方同居の嫁取りにかわった。

 そして、京都精華大学の田中充子さんは、次のように書いていました。

ツマドイは男が女の家へ通い「あなたが好きです。一夜を共にさせてくださいせてください」と求婚することで、たいてい一過性のものであり、同棲を伴わない。女はそれで格別不服はない。ツマドイによって結ばれた男と女はそれぞれの大家族に住み、生まれた子は女の大家族で育てられる。ツマドイがいつから始まったかは分からないが、その末期に「妻問」という語が『記・紀』や『風土記』 『万葉集』にみられることから、 奈良時代末期まであった習俗とかんがえられる。

 おや。Wikipediaの記述とは異なりますね。手児奈が「近隣の国へ嫁いだ」となると、当時の結婚形態とは正反対です。

 そのため、Wikipediaに紹介された説は、おそらく、鎌倉時代以降の創作でしょう。

 ちなみに『手児奈』(西川日恵、文芸社)には2つの伝説が紹介されていました。
 1つは、手児奈が継母のために水汲みなどで尽くしていたという話。
 もう1つは、手児奈が別の土地の男性と結婚したが、なぜか海に流され、生まれ故郷の市川真間にたどり着き、地元の漁師などに隠してもらってひっそりと生きていくという話。

 前者の説だと、田中充子さんの解説と食い違う点が出てきます。生まれた子は女の大家族で育てられるので、「手児奈が継母のために」というのも変ですよね。父の後妻である継母と、手児奈が一緒に暮らしているという設定が、妻問婚では考えられません。そのため、鎌倉時代以降の創作ではないかと。
 大阪府立近つ飛鳥博物館館長(当時)の白石太一郎さんは、以下のように語っていました。

実は古墳時代の倭人社会では、基本的には夫婦は合葬しません。継体は何人かお妃がいますが、継体を支えた尾張の豪族の娘さんの目子媛との間に産まれたのが継体の後を継いだ安閑と宣化。しかしお父さんが継体で、お母さんが尾張の豪族の娘ですから、この2人もそれ以前のヤマト王権の王統の血を受け継いでいません。だから継体に王位継承上の問題があったとすると、安閑と宣化にも同じ問題がある。それをカバーするために、安閑は春日山田皇女、宣化は橘仲皇女、いずれもそれぞれ仁賢の娘さんと婚姻関係を結んでいます。ここでもまた入り婿の形で王統を受け継いでいるわけです。

 古墳時代から「入り婿の形で王統を受け継いでいる」のが普通だったのです。

 後者の説は、Wikipediaに掲載された説と同様、やはり鎌倉時代以降の創作でしょう。別の土地の男性と結婚したとしても、その土地の男性が手児奈のもとに来るのが、当時の常識。 


 それにしても、古墳時代から平安初期まで、どうして妻問婚だったのでしょうか。

 理由の一つに、社会の中での女性の役割、特に子どもを育てる役割が重視されていたからと推測できます。
 縄文時代の土偶は、女性をかたどったものがほとんどです。「本来的には女性性(女性のもついろんな力)を象徴する呪術具であると思われます」と、考古学者の山田 康弘さんは語っていました。

Wikipediaより

 呪術具、つまりはおまじないなどのための道具です。
 女性には巫女(シャーマン)的要素が備わっていると考えられていました。「女性が巫女として神の意志を聞き、それに基づいて男の兄弟が実際の政治を行う。これをヒメ・ヒコ制」と白石太一郎さんは説明しています。卑弥呼(175~248年)がまさに巫女で女王でした。

 以上のことから推測すると、手児奈は巫女だったのではないかと。しかも、複数の。
 そして、まじないなどを行うだけでなく、時には戦いにも参加したと考えます。

 その理由は、古代には「戦う女性」が珍しくないからです。関西外国語大学教授の佐古和枝さんは、古墳などが発掘された際に、「骨は残っていないけど武器が多いから男性」「装身具が多いから女性」と決めつけていいのだろうかと、語っていました。


例えば、3世紀末に完成した『魏志』倭人伝の中に、倭人の有力者は4から5人の妻がいる、下級の人たちも2から3人の妻がいると書いてあり、それをもって一夫多妻制だったと言われています。でも、女性たちが1人の夫しかいなかったとはどこにも書いていない。多夫多妻だったかもしれないですよね。男性の視点でしか書いてないのです。それを真に受けると、古くから一夫多妻制が続いていたように錯覚します。実際はどうだったのか。考古学は骨でしか男女を語れないので、生前の夫婦のあり方というのは考古学ではよくわからないのですが、女性たちに焦点を当てて「記紀」や『万葉集』を見直したら、逞しい女性がいっぱい出てきます。


 薩末比売や神功皇后など、戦う女性を紹介している『女武者の日本史』(著/長尾剛 朝日新聞出版)によると、古代の日本では「戦士という立場」で男女の差はなかったのだそうです。そして戦争のときだけではなく、平時からも女性が部族の首長となったり、仕事があったりして、男女格差の大きくなかった社会だったとのこと。

『名高百勇伝』「神功皇后」歌川国芳 作

 そう考えると、複数の男性に言い寄られたぐらいで自殺するというのは、当時の女性像と合わないのではないでしょうか。
 そして、しつこいのですが、色恋沙汰で自殺した女性のために、あの行基が「求法寺」をわざわざ建立するというのも、納得いきません。

 さらに、「真間の手児奈」伝説そっくりの、「複数の男性に言い寄られたのを苦にして自殺する美しい女性」という「菟原処女の伝説」が兵庫県芦屋市に伝わっているそうです。
 しかも『万葉集』で、歌を詠んだのが高橋虫麻呂。手児奈と一緒じゃないか!!

 『手児奈伝説―万葉に歌われた真間の娘子』には、以下の記述があります。

当時の都人はこうした娘子の入水伝説を好んだ
「真間の井」「真間の継橋」は確かに『万葉集』の中に歌われているが、現在の位置がすなわちそれであったかは疑問である。おそらく物語にあわせて後世になって作られたものであろう。
赤人や虫麻呂が現地を訪れる以前、ママのがけからは清水が流れ落ちていて、しかも海水が引き去らないころ、娘子の入水死があり、その後、海の後退とともに伝説化して土地人の間に語り伝えられていたものと思われる。
 複数の男性の間で揺れ動く美しい娘。争いに心を痛め、ひっそりと水に消えていく……これは都人や後世の人々のロマン、つまり「求める女性像」だったに違いありません。


■参考資料
百舌烏古墳群の時代~古代における女性~

Wikipedia

『女武者の日本史』(著/長尾剛 朝日新聞出版)
『手児奈伝説―万葉に歌われた真間の娘子』(著/千野原靖方  崙書房出版)
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