市川 芸妓ものがたり 3 ~花街の成り立ち
『目で見る市川の100年』(郷土出版社)より |
芸妓(芸者)とは、女性の専門職で自営業。宴席で唄や日本舞踊などの芸能で客を接待する仕事をします。芸妓文化の始まりは、江戸時代中期の京都だそうです。
この写真は京都先斗町で自分が撮影したもので、市川ではありません |
芸妓遊びのできる店が集まっている地域が、「花街」(はなまち、かがい)です。料理屋(料亭)・待合茶屋・置屋(芸者屋)がまとめて「三業」と呼ばれていたためため、「三業地」という別名もあったとのこと。
○料理屋→仕出し・ケータリング会社
○待合茶屋→イベントプロデュース会社
○置屋→タレントエージェンシー、芸能プロダクション
客が待合茶屋に「こんな宴席を設けたい」と声をかけると、趣旨や予算に合わせて料理屋に仕出しを頼み、置屋に芸妓を派遣してくれるように頼みます。そして待合茶屋で、客は芸妓遊びができたわけですね。
このシステムは、江戸時代くらいまでは全国の花街で共通だったようです。
ただ、時代が下り、東京など地域によっては、料理屋(料亭)がイベントプロデュースから料理の提供、芸妓の呼び寄せまですべて行うようになったのだそうです。市川も東京と同じシステムだったと推測できます。
また、関東などには、「検番」と呼ばれる施設があって、以下の役割を果たしていたとのこと。
○待合茶屋・料理屋と置屋の中間に立って、芸妓派遣のあっせん
○花代(芸妓への報酬)の計算
○芸妓の開業・廃業に伴う公的機関への手続きの代理
○芸妓への技芸試験
市川真間には、かつて市川二業組合検番がありました。なお、待合茶屋・置屋で「二業」なのだそうです。
芸妓として一人前に成長するまでに、礼儀作法や芸事を仕込まれなければなりません。当然、お金も時間もかかります。そのため、花街全体として大きなお金を回して、芸妓育成に投資することも重要だったと考えられます。
大きなお金という点では、軍の関係者は花街にかなり貢献したはずです。
個人で芸妓遊びできるのは、よほどのお金持ち。基本的には斜陽や接待で、花街に訪れる人が多かったと思われます。
ただ、1970年代のオイルショック以降に、芸妓遊びできるような余裕もなくなってしまいました。
1930年(昭和5年)には、東京には約10,220人にいた芸妓も、1970年代以降急速に減少し、2007年(平成19年)には、東京では約330人にまで減少したというデータがありました。
ですから、市川で完全に芸妓文化が途絶えてしまったことも不思議ではありません。時代の流れとともに、芸妓という生業が成り立たなくなったということ。芸妓がいなくなれば、花街も消えます。
もしかしたら、近所の小料理屋の女将さんが芸妓だったなんてことも、なんだかありそうですね。
『目で見る市川の100年』(郷土出版社)より |
そういえば、1946年(昭和21年)に永井荷風は市川に移り住んだにもかかわらず、わざわざ浅草まで通っていました。「花街遊びに生涯徹した」などといわれている永井荷風ですが、市川の花街についてはどうだったのでしょうか。軍人が多かったようなので、好まなかったのかもしれませんね。
広報いちかわ11月4日号より |
□参考資料
https://www.kyosendo.co.jp/essay/134_yanagibashi_1/
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasess/36/0/36_73/_pdf
http://www.ritsumei-arsvi.org/uploads/center_reports/17/center_reports_17_12.pdf
https://www.jinzai-soshiki.com/archives/interview/post_52.html
http://www.city.ichikawa.lg.jp/pr/2171104/koho_toku2171104.html#m05
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