「古代から17世紀まで、どうして錬金術に夢中になった人々がいたのか」 文系人間がまとめてみた その1 古代エジプトと金

 ※フリーランスの編集者・ライターである『クラナリ』編集人(バリバリの文系)は、腎臓に関する記事や書籍に携わる機会が多いため、それに関連していろいろと考察しています。素人考えですが。

ケムはエジプトの地を指す古代の呼び名である。錬金術(アルケミー)と化学(ケミストリー)という言葉はいずれも「エジプトの学問体系」という意味である。

 ウィキペディアでは、「錬金術は、最も狭義には化学的手段を用いて卑金属から貴金属を精錬しようとする試みのこと。広義では、金属に限らず様々な物質や人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す」と説明されています。

 単純化してしまうと、鉛など金ではない金属から、金を作り出す方法が錬金術です。
 現代を生きる私たちにとっては、「?」という荒唐無稽な話です。しかし古代から17世紀まで、多くの人々が本気で、真面目に錬金術に取り組んできたとのこと。

 どうしてそれほどまでに錬金術に夢中になったのでしょうか。まずは金の持つ意味について考えてみたいと思います。

 人類が金を使うようになったのは、今から7000年前、つまり紀元前5000年頃の、エジプトのナイル川沿岸だったと考えられるようです。

金が発見されたのは、じつに古く、今から7000年前とも8000年前とも言われています。当時はもちろん金鉱石から金を取り出す(精製する)技術などあろうはずもなく、砂金として、あるいは砂金が発見された川の上流にある山などから、露頭の自然金(ナゲット)の形で発見されたものと思われます。
金の発見 三菱マテリアル
エジプト

 米国の考古学者チームが、エジプトの砂漠地帯のオアシス、ファイユーム(Fayyum)で約7000年前の初期農耕時代の都市遺跡を発見した。


 今回発見された遺跡は紀元前5200年から4500年の間の新石器時代もの。ハワス事務局長によると、電磁気調査を行ったところ、カラニス(Karanis)地区の地表下に城壁・道路網が存在することが判明。これらは、グレコ・ローマン(Greco-Roman)時代に建設されたものに似ているという。今回の調査により、テラコッタや加工石灰岩で作られた城壁や住居跡のほか、陶器、石窯、穀物貯蔵庫なども大量に発見されたという。
エジプトで約7000年前の都市遺跡を発見

 ウィキペディアの内容をまとめると、古代エジプトの歴史は以下のとおりです。

紀元前5千年紀~紀元前4千年紀 都市が誕生
紀元前4千年紀末 エジプト第1王朝が成立
紀元前27世紀~紀元前22世紀 古王国 ギザの大ピラミッド(クフ王)
紀元前21世紀~紀元前18世紀 中王国
紀元前16世紀~紀元前11世紀 新王国 黄金のマスク(ツタンカーメン)
ツタンカーメンの黄金のマスク(写真/Pixabay


 古代エジプトでは金が権力の象徴で、王=金というように、王朝の成立と金との間に関係性があったのかもしれません。
 新王国の頃には、金細工職人がいた模様。
エジプトのルクソール近郊で3500年前の墓が見つかり、金細工職人夫婦の像が発掘された。
発見場所は、ナイル川西岸のドゥラ・アブル・ナガ墓群
第18王朝時代の家族だ、と考古学者は語っている。


 古代エジプトは「ケム」「ケミ」と、そしてミイラ作りや金細工などの技術は「アル・ケム」「アル・ケミア」と呼ばれて、これがalchemy(錬金術)とchemical(化学)の語源とのこと。冒頭の引用にも同様のことが書かれています。

古代エジプト語で,不毛な砂漠のことを「デシュレト(赤い土)」,ナイルの水が及ぶ耕地は「ケメト(黒い土)」と呼び分けていた。この「ケメト」はエジプトそのものを意味する時に用いられた。後世アラブ人はエジプトのことを古代名「ケム」「ケミ」で呼ぶことがあり,エジプトの古代魔術(ミイラ作りや神秘的な宗教儀式)や科学的な産物を「アル・ケム」「アル・ケミア」といった。これが,英語の alchemy(錬金術),chemical(化学)の語源になった。エジプトにおける砂漠と耕地の境界は,今でも赤と黒にはっきり分かれており,「赤」は不毛,死を,「黒」は生命力,肥沃を,そして,ケメトに芽吹く作物の「緑」は生命,再生,復活を象徴する色とされている。ケメトから姿を現すのが「フンコロガシ(スカラベ)」であり,創造神ケプリとして崇められ,生命力,再生,復活,そして太陽の運行を司る神とされた47)。
「土」──その存在と多面的な役割(Ⅲ)──土の文化論──

 メソポタミアについては、紀元前2600年頃のウルク第1王朝の王ギルガメシュの姿が、「人類最古の文学」と呼ばれている「ギルガメシュ叙事詩」で描写されています。
 ギルガメシュ叙事詩では金について触れられていないようですが、エジプトの中王国に相当する紀元前2000年頃に、メソポタミアでも金は権力の象徴だったようです。古代シュメール人の王家の墓から、金を使った装飾品などが見つかっています。

紀元前2600年頃の古代都市ウル全盛期に生きていたとされるプアビ女王(復元)と頭飾り(Queen Puabi's Headdress、写真/Penn Museum

考古学者レオナード・ウーリーが、現代のイラクにあたる古代都市バビロンの南東225キロで、古代都市ウルの王家の墓を発見した。4000年以上前から無傷のまま残されていたメソポタミアの王墓は、世界最古の物語『ギルガメシュ叙事詩』を残した古代シュメール人が作ったものだった。

神殿の周囲を掘ると、小さな黄金の遺物が次々に見つかった。

青銅の武器と一緒に、ラピスラズリの柄がついた黄金の短刀が紛れていたのだ。その隣にあった黄金の袋の中には、やはり黄金で作られた楽器一式が納められていた。
「偉大な死の穴」 メソポタミアの財宝と残酷な儀式

 地中海沿岸では、紀元前2000年~紀元前1400年のクレタ(ミノア)文明の頃に、金の装飾品「アイギナの財宝」が作られたとされています。クレタ文明については、クノッソス宮殿が有名ですね。
アイギナの財宝(Aegina treasure 02.jpg、写真/Einsamer Schütze)

クノッソス宮殿(写真/Vassilis St



 また、金が物々交換に使われ、通貨の代わりも果たしていた可能性があります。

アナトリアの歴史考古学でいうところの「アッシリア・コロニー時代」(前 1950 年頃〜前 1719 年頃)(Kulakoğlu2011: 1019)1)、中央アナトリアでは、キュルテペ(Kültepe)/古代名カニシュ(Kanesh)を拠点とし、北メソポタミアの都市国家アッシュール(Aššur)との交易が盛んに行われていた(図 1)。その交易は、アッシュールから青銅の原料となる錫や織物などを輸入し、銀あるいは金で支払いを行うというものであった。金、銀などの金属鉱物資源を有するアナトリアで、当時、それらの採掘が行われていたことは確かである(Yener et al. 1996: 375)。
中央アナトリア、アッシリア・コロニー時代における青銅製品について

西アジアでは古くから物品の価値を銀などの貴金属で換算していた。この習慣の中から、前7~前6世紀にトルコ西部にあったリュディア王国などで最初期のコイン(形状・重量・品質の定められた金属貨幣)が発行された。アケメネス朝は前6世紀半ばにリュディアを征服し、自国のコイン(金貨・銀貨)の発行を始めた。しかしコインの使用は貨幣制度が既に浸透していたギリシャ世界との接点、すなわち地中海側の帝国西部に偏り、その他の地では貴金属の秤量貨幣が用いられていた。その後、西アジアがアレクサンドロス大王とその後継者(セレウコス朝シリア)に支配されると、ギリシャ系コインが発行され、国がコインを発行する行為と貨幣経済が定着していく。アテネを中心とするアッティカの重量制度による銀貨が主流で、表に国王胸像、裏に神像、さらに王名や称号が打刻された。前3~後3世紀のアルサケス朝パルティアや3~7世紀のササン朝ペルシャはこの伝統を受け継ぎ、国の管理下に銀貨を中心に発行した。肖像や神像を刻む基本は同じだが、美術的表現、銘文、宗教観などに民族的特色が見てとれる。コインは経済的役割だけでなく国家や発行者である支配者自身を顕示する媒体としての役割も担っていた。
ペルシャ歴代の王とコイン-アケメネス朝からササン朝を中心に-

  アケメネス朝ペルシアとギリシアとの間のペルシア戦争には、貨幣が関係していたという説があります。金と銀との交換ルートで、アケメネス朝ペルシアが損を被るから、「ギリシア、許すまじ(実際は、ペルシアの商人が悪いのですが……)」という空気になったと考えられます。

 

紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシアは全オリエントを統一し、強大な力を誇りました。ペルシアは金貨を鋳造し、領域内に流通させました。

ペルシアの貨幣は極めて良質で、国王ダレイオス一世が鋳造させたダレイオス金貨は、不純物がわずか3パーセント以下でした。ギリシアの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』の中で、「ダレイオスはできる限り純粋に精錬した金で貨幣を鋳造させた」と記しています。

アケメネス朝ペルシアにおいて、金と銀の交換比率GSR(gold silver ratio)は1:13.3と定められました。

同じ頃、ペルシアの西方で、エーゲ海交易圏の確立とともに、ギリシア各地でポリスと呼ばれる都市社会が興隆します。ミレトス、アテネ、スパルタ、テーベなどの都市です。

ギリシアのGSRは、ペルシアとほぼ同じ水準で1:14でした。ところが、アテネで紀元前6世紀の半ば、ラウレイオン(ラウリウム)銀山の組織的な採掘がはじまり、独自の通貨ドラクマが鋳造されます。ドラクマはギリシア語で「摑む」という意味を持ちます。

銀が大量に生産され、ギリシアの銀価格が値下がりし、急激な「金高=銀安」の状況が発生しました。この機に乗じて、ペルシア商人はギリシアで、金を割安な銀と交換し、為替差益を稼ぎました。

そのため、紀元前6世紀末以降、ペルシアのダレイオス金貨が大量にギリシアへ流出しました。事実上の金本位制をとるペルシアにとって、看過できない深刻な事態でした。

ペルシアの政権内部では、金の流出を食い止めるためにも、ギリシアを征伐するべきとの声が強まり、ペルシア戦争が始まります。紀元前480年、アテネ沖のサラミスの海戦で、海戦が得意なギリシアにペルシアは敗北します。

以後、ペルシアの覇権は急激に失われ、紀元前4世紀後半には、ギリシア勢力を率いたアレクサンドロス大王がペルシアに攻め入り、これを滅ぼしました。
ペルシアvs.ギリシャに始まり、現代に続く覇権争い…貿易戦争の世界史


 上記とWikipediaをまとめると、次のとおりです。

紀元前7世紀~紀元前6世紀 リュディア王国 金属貨幣「エレクトロン貨」を発行
エレクトロン貨(写真/Classical Numismatic Group

紀元前550年頃にリディア王国のクロイソス王が発行した金貨(写真/BabelStone)

紀元前6世紀~3世紀 アケメネス朝ペルシャ 金貨・銀貨を発行
紀元前500年~紀元前449年 ペルシア戦争
紀元前331年 マケドニア王国のアレクサンドロス3世によって制圧→アケメネス朝ペルシャ滅亡
226~651年 ササン朝ペルシャ 銀貨を中心に発行した

 ここで、錬金術と関係が深いとされる人物が登場しました。アレクサンドロス3世です。そして、アレクサンドロス3世の家庭教師が、アリストテレスでした。
 マケドニア王国は、ギリシアの北方にありました。当時のギリシアは、都市国家の間で騒乱が起こり、ペルシア戦争もあって、衰退期にありました。
 紀元前384年に、バルカン半島の東南のトラキア地方にあるスタゲイロスという都市で、アリストテレスは生まれました。当時、マケドニア王国の支配下です。
 紀元前342年、アリストテレスが42歳のときにマケドニア王から首都のペラに招かれました。そして、13歳のアレクサンドロス3世の家庭教師になります。アリストテレスは、アレクサンドロス3世が13歳のときから教え始めます。
 6年後の紀元前336年に、アレクサンドロス3世は王位に就き、その翌年に、アリストテレスはアテナイに戻りました。

 紀元前332年に、エジプトでアレクサンドリアという都市が建設されました。このアレクサンドリアで、古代エジプトの金の加工技術と、アリストテレスの四原質(四元素)説が結びつき、錬金術が生まれたという説があります。 

§3 錬金術時代から純粋化学時代

 なお、紀元前2800年~紀元前600年の長江文明の、中国四川省広漢市の三星堆(さんせいたい)遺跡からは金の容器が発見されています。
 そして、紀元前2500年~1533年と長く続いたアンデス文明では、金の装身具をつけた「パコパンパの貴婦人」と呼ばれる紀元前900年頃の女性権力者の墓が見つかっています。
 紀元前2500年~紀元前1500年のインダス文明は、「インダス文明からの金の出土はきわめて量が少ないが、シート状に敲き伸ばした小片を筒状. に丸めた小型のビーズなどが知られている」(インダス文明のビーズについて-覚え書き)とのこと。

<デジタル発>中国の「長江文明」丸ごと見せます 三星堆遺跡 古代の謎、次々解明

ジャガーの頭にヘビの胴体! アンデスで神官の墓発見 巨大金製首飾りも 民博調査団がペルーで発掘

 洋の東西を問わず、私たちの祖先は金を貴重なものとして扱ってきたようです。キラキラが好きなのでしょうね。

■参考文献
『中学生にもわかる化学史』(著/左巻健男 ちくま新書)
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