宗教の複雑な世界観は、どうしてできちゃったのかな問題 その1

「どうして、こんなに複雑な世界観になってしまったのか……?」
 仕事関係で仏教について調べている中で、そんな疑問が生まれました。

 例えば須弥山(しゅみせん)。
 下の図のような構成(?)になっています。「ちょっと、どういうことなの?」と思いませんか。形だけだと、一昔前の芸能人のウェディングケーキに見えなくもありません(あくまでも形だけ)。
Wikipediaより


 虚空(図の黒いスペース)に「風輪」という円柱が浮かんでいて、「水輪」、水輪の上に同じ直径の「金輪」という円柱が載っています。金輪の上は海で、その中心に須弥山があり、東西南北には島が浮かんでいて、南にある瞻部洲(せんぶしゅう)が人間の住む島なのだそうです。

 そのほか、地獄も階層化していて、「もう、なにがなんだか……」と頭に入ってきません。

 『クラナリ』編集人は宗教についても素人ですが、一般的に考えて、文字を持たない時代には、太陽や山、石、鳥などの自然に存在する(目に見える)ものを崇拝する自然崇拝から始まったのではないでしょうか。
 もっとも、自然崇拝→多神教→一神教と"進化"していったというモデルについては、宗教の起源の研究の中で、現在は否定されているとのこと。

 また、神の信仰と社会的複雑さとの因果関係についても、最近、論文が出ていました。農耕が進んで多くの人が集まって定住するようになり、社会が複雑になると"偉大な神"が登場し、社会を乱す人(フリーライダー)を罰するという考えができたという説と、反対だという説です。後者は「ビッグ・ゴッド(神の信仰)仮説」と呼ばれていました。

〇ビッグ・ゴッド(神の信仰)仮説:小規模な狩猟・採集社会→宗教的儀式→神(ビッグ・ゴッド、懲罰神)→大規模な農耕社会(ビッグ・ソサエティ)
〇慶應義塾大学などのグループが発表した仮説:小規模な狩猟・採集社会→宗教的儀式→大規模な農耕社会(ビッグ・ソサエティ)→神(ビッグ・ゴッド、懲罰神)

 何はともあれ、複雑な世界観を持つ宗教は、大規模な農耕社会で、文字を持つ段階になければ成立しなかったと思われます。「あれを取って」「それを渡して」といった単純なやり取りならばともかく、「風輪の上に水輪、金輪が載っていて、その上は海で……」などは文字にして残しておかなければ複数の人で共有できません。
 また、宗教素人の立ち位置では、なんらかの必要性があって複雑な世界観が生まれたと、つい考えてしまいます。

 仏教が誕生したインドで、どうして複雑な世界観が出来上がってきたのかについて、歴史素人でもある『クラナリ』編集人が検討しました。

 先に推論を述べると、外敵による侵略・侵攻の脅威にさらされたコミュニティでは、内部の一致団結を図るべく、リーダーに当たる人たちが神話(聖典などひっくるめて)を作り出しました。コミュニティに属する人たちに「これはすごい!」と思わせる必要、そして組織の輪を乱さないようにさせる必要があったため、神話は物々しくなっていったわけです。

 やがて、神話を作る担当者は、それしか仕事がないので、ストーリーや儀礼を複雑にしていきました。複雑なほうが、頭がよさそうに見えるし、かっこいいと思ったのではないでしょうか。
 一方、「なんだか、ややこしい。訳わかんないや……」と一般民衆は神話に興味を失い、本来の必要性(一致団結など)を満たさなくなる頃、新しい宗教が生まれます。この新しい宗教についても、先の宗教と同様に、複雑化の道をたどるという、繰り返し。

 「複雑な世界観は、インド亜大陸に、時代を分けて、何度もアーリア人が侵入してくるという過程で紀元前1000年頃に作られてきたのではないか」という推測です。この世界観は、インドで生まれた宗教に共通するものになったのではないでしょうか。

 ここで、用語について、お断りしておきます。
 文化人類学者の竹沢泰子博士は、次のように述べていました。
 ヒトの起源に関してはアフリカ単一起源説で現在科学者の間ではほぼ見解が一致しています。これは地球上のすべてのヒトが、現代人であるホモ・サピエンス・サ ピエンスとしてアフリカから他地域に広がったとする説で、10万年から15万年前と言われています。それまで考えられていた60万年から100万年前よりもかなり最近のことになります。したがって、そのような短い期間で人種に該当するような、明確な境界をもった小集団が誕生するとは考えられないという説があります。またヨーロッパで進化したと一時期考えられていたネアンデルタール人にしても、現代人の祖先ではないことがわかってきました。アフリカからすべての地球上のヒトは現代人として分散したと今日では考えられています。つまり、個々の人間の体のなかには、イギリス人であっても、私のなかにも、アフリカのある地域に住む人たちと同じ遺伝子が伝わっているということです。
 最近話題になっているヒトゲノム解読からも、遺伝子構成が不連続だ ー つまり、それぞれの集団毎で遺伝子構成がセットになって、他の集団とは互いに異なる ー という人種概念の前提は破綻しています。
 皮膚の色や目の色などが地域によって違うのは、環境による作用などによるもので、ヒトの身体的な多様性を理解する上でも重要です。けれどもそのような特徴をもとに境界線を引いて人間をいくつかの集団に分類するという人種の概念は、今日生物学的に有効ではないという見方が一般的です。

 今、地球上にいる人類は、祖先がアフリカ出身ということで共通していて、99.9%は同じDNA配列を持っていることがわかりました。人類の出発地点はすべてアフリカで、移動した先の気候などに合わせて肌の色などが変化したものの、人間は移動するために肌の色が変わるばかりか、混血もあります。
 そのため、以下の見解は現在ではおかしいということになっています。
「人種」 生物学的特徴によって分類された集団×
「民族」 文化の違いによって明確な境界をもつ集団→×

 白人・黒人・黄人、そしてコーカソイド・モンゴロイド・ネグロイド・オーストラロイドといった「人種」は無意味。「明確な境界」などありません。

 これを踏まえて、今回の記事の「アーリア人」「ゲルマン人」「ドラヴィダ人」などの「〇〇人」という表記は、言語や宗教(儀礼)、生活スタイルが似ている人々という意味で使います。あくまでも便宜的な呼び方で、アーリア人についてはインド・ヨーロッパ語族という表現もあります。

 アーリア人は紀元前3000~紀元前1500年に、草原と森林の混在する中央アジア(カスピ海・黒海の周辺、ウラル山脈南部ユーラシア・ステップ西部)に居住していた遊牧民です。ウシやヤギなどの家畜を連れて、水と草を求めて移動生活を行っていたと考えられます。
 あまりに大きな集団になると移動がしにくいため、数家族がグループになっていたのでしょう。1グループ当たり、多くても十数人と思われます。そのため「アーリア人の移動」といっても、数万人規模ではわけでなく、100人未満の単位で動いたと思われます。

 紀元前2100~紀元前1800年には、ウラル山脈南部でシンタシュタ文化が栄えました。
 牧畜を営み、二輪戦車(チャリオット)を発明し、環濠集落を本拠地とする首長制社会を築き上げ、新種の武器で武装し、儀礼を生み出し、採鉱を行って金属を生産していました。冶金術とや集落構造、二輪戦車の技術は、ほかの地域にも広まっていきました。

 また、現在のアフガニスタン北部からトルクメニスタン東部・ウズベキスタン西部にかけては、紀元前2000~紀元前1800年には青銅器文化があり、「バクトリア・マルギアナ考古複合」(Bactria-Margiana Archaeological Complex、BMAC、バクトリア・マルギアナ考古学コンプレックス)と呼ばれています。現在は乾燥した砂漠(カラクム砂漠)ですが、古代は湿潤でな土地で、牧畜や灌漑農耕が行われたことを示す遺跡が散在しています。

 トルクメニスタン東部でムルガブ川(アムダリア川の支流)流域には、ゴヌール遺跡があります。城壁に囲まれた王宮で、城壁内部には宮廷や神殿、貴金属器や青銅器を製作した工房、倉庫もありました。
 ゴヌール遺跡で発掘された紀元前2000年の墓は、約30~50平方メートルとかなり大きく、5~6室に分かれており、床はモザイクで飾られていました。広間にはラクダ2頭の死骸とそれが引く車、殉死した御者2人が葬られ、金・銀、ラピスラズリ、めのうなどの装身具や鏡、斧や儀仗も副葬されていて、王に相当する権力者が埋葬されたものと考えられています。

 マルギアナ遺跡は、70以上のオアシスと150の集落で構成されていて、祭壇や宮殿、寺院なども発見されています。

 ジャルクタン遺跡には酩酊飲料を製造したり火を拝んだりする施設があったとのこと。
赤丸がバクトリア・マルギアナ考古複合の遺跡がある地域(国土地理院地図を一部改変)

上の赤丸と対応するアムダリア川・シムダリア川流域(By Shannon1


 一説には紀元前2000年頃から寒冷化が原因で、アーリア人は中央アジアからの移動を開始しました。「全員が一斉に」というわけではなく、個々のグループが移動していったと考えられ、ヨーロッパへ向かったグループはゲルマン人の起源と見なされることもありました。
 また、イラン高原に移動したグループはイラン民族になり、なかでもペルシアに定住したグループは、紀元前6世紀中頃に西アジア全域を統一してアケメネス朝ペルシャを樹立しました。
 中国に向かったグループもあります。

 アフガニスタンを経て紀元前1500年前後にインド亜大陸に進出したグループは、先住のドラヴィダ人のインダス文明が消滅した200年~400年後、紀元前1500年頃にガンジス川流域に定住し始めました。

 インダス文明(紀元前3300~紀元前1700年)については、アーリア人によって滅亡されたという説がありましたが、現在では寒冷化と乾燥化でインダス文明の都市が放棄されたという説のほうが有力なようですね。もしかしたら、感染症が蔓延したのかもしれません。
 ハラッパーやモヘンジョ・ダロの遺跡からは、象形文字や印章、煉瓦、青銅器の使用、また公衆の沐浴施設、排水構や舗装道路などが見られ、高度な都市文明が築かれていました。
 しかし、紀元前1700年頃には、インダス川流域は過疎化が進んで、空いた土地にアーリア人が少しずつ入ってきたようです。

 ガンジス川流域に定住したアーリア人の数十のグループは、一定の地域内を家畜とともに移動する半遊牧の生活を営んでいました。グループのリーダーは「ラージャン」と呼ばれ、その地位は世襲されることが多かったそうです。ただ、メンバーの支持が必要で、絶対的な権力ではなかったとのこと。食糧不足で他のグループと争ったり、先住の農耕民集落から略奪を行ったりしていましが、先住民から農耕の技術を学び、半遊牧から農耕生活への移行しました。
 加えて、自分たちの後からインド亜大陸にやってくるアーリア人の遊牧民のせいで、アーリア人の定住民は東へと追いやられていきました。
 このように不安定な状況だったことから、グループ同士で連合して、権力の集中化が進みました。紀元前1000年頃には、北インドの中央部(インダス川上流のパンジャープ東部地域からガンジス川、ヤムナー川流域まで)にアーリア人のクル族とパンチヤーラ族の強力な連合国家が形成されました。

 安定した新たな体制を作る中で、紀元前1200~紀元前1000年頃に編纂されたのが、『ヴェーダ』だったのではないでしょうか。『ヴェーダ』は伝承の集大成で、宗教讃歌です。古インド・アーリア語が使われ、火・風・雷・太陽といった自然要素とその絶大なエネルギーを神格化し、戦勝、子孫繁栄、降雨、豊作、長寿などいった願望を成就するために作られました。
 『ヴェーダ』を口にし、祭式をつかさどるのがブラーフマナです。ブラーフマナには「婆羅門」という漢字が当てられ、日本では「バラモン」、さらに『ヴェーダ』の宗教は「バラモン教」と呼ばれています。祭式では、神に対して動物や、時に人間を捧げる祭祀(動物供儀)を行われていました。

 紀元前1200年頃に、パンジャーブで神々や王を讃える歌を集成した『リグ・ヴェーダ』が編纂され、現在のヴァルナ(カースト)制度がここで誕生しました。王族とバラモンの共同支配が確立しました。

〇神官・司祭・学者:バラモン(ブラーフマナ)
〇王族・貴族、戦士:クシャトリア
〇農民、商人、庶民:ヴァイシャ
〇奴隷:シュードラ
〇不可触民:ダリット ※ヴァルナに属さない最下層とされた

 『リグ・ヴェーダ』には、火神アグニや風神ヴァーユ、雷神インドラ、太陽神スーリヤ、、暁の女神ウシャス、雨の神パルジャニヤ、暴風神ルドラ、川の女神サラスヴァティー、夜の女神ラートリー、また、プルシャといって、宇宙の根源とされる巨人(原人)が登場します。プルシャは、千個の目と千個の頭、千本の脚を持つとされています。
 数百年をかけて賛歌や散文が『リグ・ヴェーダ』に加えられていったほか、次の3つのヴェーダも編纂されました。

〇『サーマ・ヴェーダ』
〇『ヤジュル・ヴェーダ』
〇『アタルヴァ・ヴェーダ』

 ヴェーダは、聖なる言葉の知識と、それを用いて行う祭式の伝統の総体として、師(アーチャーリヤ)から学生(ブラフマチャーリン)へと、口頭で伝授されました。また、祭式で唱え歌われるマントラ(讃歌)や呪句の集成で祭官の職分に応じて作成されました。
 それぞれのヴェーダは『サンヒター』と呼ばれる本集、そして祭儀書や奥義書といった複数の付属文献で構成されました。

 ただ、『アタルヴァ・ヴェーダ』は、主として呪術に用いられる呪句を集めたもので、ほかの3つのヴェーダよりも権威が低いと見なされています。また、『アタルヴァ・ヴェーダ』の医術に関する部分が独立して「アーユル・ヴェーダ」が成立しました。

 そのほか、次の文献も作られました。

〇ブラーフマナ(紀元前900年~紀元前500年):祭式の次第・順序などの規定とマントラの起源・語義などを神話と結びつけて神学的に説明することを主な内容とする散文の文献

〇アーラニヤカ(「森林書」、紀元前600年):祭式の神秘的な意義を説き明かす文献

〇ウパニシャッド(「奥義書」、紀元前1000~紀元前500年):宇宙原理ブラフマンと個人原理アートマンを統合しようとする「梵我一如」の哲学書

 アートマンは肉体が滅びた後(死後)も存在し、生前の行い(業、カルマ)によって輪廻は決まるため、善行は良い業を、悪行は悪業を生むとする因果応報の思想です。輪廻する世界は苦の世界であるとして、輪廻の世界からの脱却である解脱を目標としたのでした。

 王族やバラモンは、祭主(儀礼の依頼主)として、複雑な儀礼を執行を行うことで、国内での地位と「天界の獲得」という特権が保証されました。時代が下ると、バラモンの権威が強く、しだいに形式的になってきました。

 同じ頃の、社会の変化としては、鉄器の使用が普及するにつれて、農業生産が増大し、商工業が盛んになり、商業都市がガンジス川流域に成立しました。
 紀元前600~紀元前50年頃には商業都市が核となった「十六大国」が存在したとされています。カンボージャ、ガンダーラ、クル、パンチャーラ、シューラセーナ、マッチャ、アヴァンティ、チェーティ、ヴァンサ、カーシー、コーサラ、マッラ、ヴァッジ、マガダ、アンガ、アッサカの16国です。

 十六大国の時代、バラモン教離れが起こったようです。「梵我一如」を目指して、修行や苦行、儀礼を行っても、必ずしも解脱は得られないのではないかという疑問が広がりました。そういう疑問を多くの修行者が抱いたようです。そして新しい宗教が生まれました。

 紀元前500年頃、十六大国の一つであるマガダで、ヴァルダマーナがジャイナ教を開き、マハーヴィーラ(偉大な雄者)と呼ばれました。
 同じ頃に、十六大国の一つのコーサラに属していた小国のカピラの王子シッダールタ、後のゴータマ・ブッダこと釈迦が仏教を、そしてマッカリ・ゴーサーラがアージーヴィカ教を開きました。
 マガダの国王は、ジャイナ教と仏教を保護しました。
 また、マガダの王朝で、インダス川流域からガンジス川流域までを統一し、紀元前322年頃に成立したマウリヤ朝では、第3代のアショカ王が仏教を保護しました。

 一方のバラモン教は、動物供儀や祭式儀礼中心を、新興宗教のジャイナ教や仏教から否定・批判されました。
 また、文学、哲学、論理学、文法学、政治学、天文学、建築学、数学、医学といった、さまざまな学術分野が大きく発達しました。

 そのため、バラモン教なゾウの神様やサルの神様などさまざまな要素を取り入れるとともに、儀式主義を排して、現在のヒンドゥー教へと変化していきました。
 ヒンドゥー教徒の生活規範を示した『マヌ法典』は、紀元前2世紀から2世紀にかけて成立しました。また、紀元前4世紀から紀元後4世紀にかけて『マハーバーラタ』(バラタ族の物語)、2世紀頃に『ラーマーヤナ』(ラーマ王子行伝)が成立しています。
 1世紀には、ヴェーダーンタ学派、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ミーマンサー学派、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派の「インド六派哲学」が生まれて、320~550年頃に北インド全体を統一支配したグプタ朝ではヒンドゥー教が民衆に浸透したのだそうです。雷神、水神、火神など、自然に結びついたバラモン教の神を受け継いだヒンドゥー教は、農民の日々の暮らしに結びついたとのこと。
 そして、6世紀(一説には8世紀)に南インドでバクティ運動が始まりました。

 世界大百科事典では、インド哲学研究者の宮元 啓一博士が次のように説明しています。《バガバッドギーター》=『バガヴァッド・ギーター』は、『マハーバーラタ』の第6巻に収載されていて、ヒンドゥー教の聖典になっています。

バクティ
bhakti[サンスクリツト]

インドの宗教、とくにヒンドゥー教における重要概念。これは、最高の人格神に、肉親に対するような愛の情感を込めながらも絶対的に帰依することであり、ふつう〈信愛〉と訳されている。ベーダの祭式は、王侯や司祭階級バラモンたちの独占するところであり、またウパニシャッドに説かれる自己と宇宙に関する深遠な洞察は、知的エリートにのみ可能であった。バクティの概念を前面に打ち出したのは《バガバッドギーター》が最初であるが、ここにようやく、ベーダ以来の正統的宗教が一般民衆に開かれたものになり、ヒンドゥー教が急速に発展する基盤が形成されたのである。バクティは、とくに南インドのビシュヌ派諸派の間で重要視された。寺から寺へ渡り歩き、バクティにあふれた宗教詩を神像の前で歌い上げた、アールワールと呼ばれる神秘主義的詩人たちの言説は、やがて神学的に整備され、ラーマーヌジャによって一応の哲学的な完成を見た。彼によれば、個我が解脱するためにはバクティがなければならない。神に絶対的に帰依するとき、神の恩寵によって無明の闇が払われるのである。そのバクティは、聖典に説かれる真理の知識に基づき、宗教的なもろもろの義務を遂行することによって得られるのである。ラーマーヌジャのバクティは主知主義的な傾向が強く、必ずしも一般民衆に開かれたものではなかった。ただし、彼はバクティと類似したプラパッティという道も示している。これはただひたすら神の前に身を投げ出すことを意味し、バクティを行うことが不可能な女性、下層階級が採るべき道であるとされている。この解釈をめぐり、さまざまな論争が起こったが、そのなかでも、人間の努力の価値を否定し、ただひたすら神に身をゆだねること、つまりプラパッティこそがバクティにほかならないとする考えがしだいに強くなり、中世インドのいわゆるバクティ運動を濃厚に彩ることになった。

 また、文化庁のサイトにある「在留外国人の宗教事情に関する資料集―東南アジア・南アジア編―」には、以下のように説明されていました。
歴史的に見ると、バクティの教義が最初に認められるのは『バガヴァッド・ギーター』(紀元前 3 世紀から紀元後 3 世紀の間に成立)においてであり、苦行や知識とならんで神への献身が解脱への道の一つとして指摘されている。その後、南インドでは 7 世紀から特にシヴァ神への愛を強調する狂躁的なバクティが大きな社会運動として興隆を迎え、聖者たちが輩出する。他方北インドでもこの流れを受けた形で、ヴィシュヌ神への愛、特にその化身であるクリシュナやラーマへのバクティ(献身)を説くバクティ運動が盛んとなる。それはバラモンのような専門の司祭による儀礼を通じて救済を求めたり、出家者のように苦行を通じて解脱を目指したりするのではなく、神への信仰とそれに応える神の恩寵によって救済を求める立場である。人々に必要なのは真摯な信仰であって、特定の社会階層への帰属が救済の条件となるのではない。様々な聖者たちが神への献身を謳う賛歌をつくり、中には多くの信徒を持つ集団(宗派)を形成した者もいた。バクティの発展は、神信仰を促進し、神殿参拝や聖地への巡礼を盛んにした。バクティの思想そのものは、神観念や恩寵についての高度に思弁的な側面も発達させたが、それが民衆に広く受け入れられることになった理由は、バクティが、神との関わりについて、知識や行為ではなく、情緒的な側面を強調し、現世利益的な祈りを否定しなかったところに求められる。

■主な参考資料
世界史の窓

Wikipedia

社会の複雑性の進化によって「神」が生まれた?
-ビッグデータ解析により世界の宗教の歴史的起源を科学的に解明- 

信仰心の強さに影響を与える遺伝子? どうしてヒトは「宗教」を持つように進化したのか

『アーリア人』 著/青木 健 講談社
『シルクロードの古代都市』 著/加藤九祚 岩波新書
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