初詣・神前結婚式・七五三参りは、明治以降に「創りだされた伝統」ということについて その3 先達・御師・檀那

 「ああ、世も末だ」
 このような言い方には、「こんな世の中、もう嫌だ」「やってられない……」という厭世観が表れています。

 「世も末」のルーツは「末法思想」のようです。

 末法思想とは、釈迦の入滅後を「正法(しょうぼう)」、「像法(ぞうほう)」、「末法(まっぽう)」の3つに分ける仏教の歴史観です。
〇正法 釈迦の入滅後の 500 年
〇像法 正法の次の1000 年
〇末法 像法の次の10000 年で、真の仏法が衰えて、修行も悟りも得られなくなり、世の中が混乱する
※諸説あり

 中国で末法思想が流行してから約500年後の10世紀に、平安時代の日本でも末法思想が広まったそうです。日本での末法の始まりを平安中期の1052(永承7)年とする説が有力とのこと。
 末法思想は、浄土信仰と結びついたと考えられています。すべての人々を苦しみから救うという阿弥陀仏の本願を信じ、ひたすら念仏を唱えれば死後に極楽浄土へ往生できると説く教えです。
 浄土信仰はインドや中国で発達し、日本には奈良時代に伝わったそうです。

 平安中期に末法思想が広まり、浄土への憧れが強まる中で、注目を集めたのは紀伊半島の南東部の熊野地域にある「熊野三山」でした。
熊野川



 古くから熊野では、熊野川の上流や河口部に、それぞれ独自に神々が祀られていました。この地域の豪族の祖先の神です。
 奈良時代には、法華経の教えに従って修行を山中で行う「持経者」がいたとのこと。持経者の山岳修行は、修験道のルーツとなります。祖先の神々がいる山で、仏教の法華経を読んで修行をしていたわけですね。

 平安中期に、本宮・新宮・那智山が熊野三山と総称されて、「熊野三所権現」とも呼ばれるようになりました。
〇本宮 家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神(けつみみこのかみ)=阿弥陀如来
〇新宮 熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)または速玉神(はやたまのかみ)=薬師如来
〇那智山 熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神(ふすみのかみ)=千手観音
 こうして3つの土地が「現世の浄土」と位置付けられたのです。

 平安時代には宇多法皇を皮切りに鳥羽上皇が21度、後白河法皇は34度も熊野参詣を行ったとのこと。都から熊野までを修験者が案内したわけです。
 熊野への参詣者は、鎌倉時代以降は各地の武士が中心となりました。室町時代頃には庶民の参詣も増え、その混雑した様子から「蟻の熊野詣」と呼ばれたそうです。

 たくさんの人が熊野に押し寄せたのですが、これを支えたシステムがありました。
〇先達(せんだつ)=修験者:案内役、関所・渡船・宿泊の世話など旅に関係することの取り仕切り、ツアーコンダクター
〇御師(おし):宿所の提供、世話係、ホテルマン
〇檀那(だんな、旦那):参詣者 ※〈与えること〉を意味する梵語ダーナ(dāna)を音写した語

 先達は、熊野王子など霊地で行う拝礼や心身を清める儀式では導師を勤めるほか、参詣できない人々のために喜捨(寄付)を熊野まで届けたり(代参のようなこと)、熊野神社の修造の費用調達のために勧進を行ったりもしたそうです。
 御師は、神社に所属する下級神職として、神社に案内したり、祈祷や宿泊などの世話をしたりしていて、熊野詣から発生した仕事・肩書きのようです。一説には、「御祈師(おいのりし)」が語源とのこと。
 先達に連れられてやってきた参拝者は、熊野に到着すると、御師に迎えられました。御師とは、熊野の現地において、参詣者や先達を受け入れ、宿泊・祈祷等の世話、山内の案内などにあたる人のことである。
 繰り返し参詣が行われると、参詣者、つまり檀那と、御師の間には「師檀関係」と呼ばれる恒常的なつながりができて、参詣者=お得意様になりました。無料で泊めるわけではないので、参詣者が来てくれると御師は懐が潤うわけです。中世の後半には、檀那は一種の財産と見なされ、相続・譲渡・売買の対象となったとのこと。

 この参詣システムは各地に広まったのですが、有名になったのは伊勢神宮の御師で、「おし」ではなく「おんし」と呼ばれました。熊野の御師とは違って、伊勢神宮の御師は積極的に各地を回り、檀那と直接会って伊勢神宮のありがたさを説くといった、プロモーション活動を行ったようです。
 江戸時代に入ると、伊勢神宮の御師は祈祷を受け付け、暦やお札、伊勢土産を配り、金銭や米の奉納を勧めたことで、お伊勢参りブームの火つけ役になりました。御師は各地に「伊勢講」という組織を作り、参詣するためにお金の積立てを行いました。
 なお「講」については、ほかの寺社への参拝目的でも作られていました。

 こうして、庶民が集団で伊勢神宮に参拝するようになり、約60年周期で「お蔭参り」という現象が起こりました。
〇1650年「慶安のお蔭参り」 江戸で発生し、1日平均500~600人が伊勢を目指して箱根の関所を通過
〇1705年「宝永のお蔭参り」 京都で発生し、伊勢神宮への参拝者は2カ月間で330万~370万人に
〇1771年「明和のお蔭参り」 山城・宇治で発生し、参拝者200万人
〇1830年「文政のお蔭参り」 阿波で発生し、参拝者427万6500人


 明治維新では、欧米のキリスト教に対応させるため(張り合うため)に、国家神道を政府は打ち立てたような印象です。キリスト教式の結婚式に対応させて、神前結婚式が作られたのも、そうではないかと。
 近代国家としてスタートさせるに当たり、取られた政策が神道国教化で、神仏分離だったといえます。
 1871(明治4)年の太政官令第234号「神社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニテ一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ勿論ノ事ニ候」で、江戸時代までの神職の世襲制は廃止されました。また神宮改革で、伊勢神宮の御師も廃止となったとのこと。
 さらに明治末期には、「神社合祀(じんじゃごうし)」という、神社の合併政策も進められました。

 熊野信仰を振り返ると、滝や山々などでの暮らしから芽生えた、自然と祖先を敬う生命観・共同体意識が、信仰に結びつき、そこに中国から伝わった仏教が融合して、信仰が熟成されてきたように思えます。そんな霊場に、貴族や武士、庶民がこぞって参詣することで、経済圏もできてきたわけです。
 
 一方の国家神道は、合理的に国を治めるために政策として人工的に作り出されたわけで、「江戸時代までの八百万の神様と、明治維新以降の国家神道の神様の概念は違う」という筑波大学名誉教授の千本秀樹博士の言葉は、こうしたところから発せられたのかなと思った次第です。


「当時、武家の世界の結婚の儀式で、三々九度の盃を神前で取り交わしたのが始まりです。ただし、江戸時代までの八百万の神様と、明治維新以降の国家神道の神様の概念は違うため、武家世界の神前結婚式と、20世紀の神前結婚式は違います」(千本秀樹・筑波大学名誉教授)

 上記の「三々九度の盃」については、神前結婚式に取り入れられた儀礼で、ネット情報をまとめると、大中小の3つの盃に、神酒を3回で注ぎ、三口で飲むようで、「三献の儀」とも呼ばれているそうです。

室町時代の公家・武家衆における公式の酒宴は,一定の作法に則って執り行われた。「式三献」がそれである。この方式の前駆をなす平安時代の公式の酒宴では,「三献」が基準作法であった。すなわち第一献目は先ず正客に盃を献じ,正客の盃は次の席へ,更に盃は順送りされて下座に及んだ。なお第二献・第三献も同じ手順を踏んで上座から下座まで一巡して,三献の儀が終わるのである。
このように三献の儀は,平安後期以降鎌倉・室町時代を通じて元服・祝言,さらに武家の出陣・凱旋などの祝宴に定着化した。

 一方、歴史学者で滋賀県立大学名誉教授の脇田晴子博士の説では、鎌倉時代の武家儀礼であるの「大盤(おうばん、椀飯)」が式三献のルーツとのこと。そうなると、「大盤振舞」と三々九度は同じルーツといえそうです。

 神前結婚式は、キリスト教の結婚式をモチーフに、武家(あるいは公家)の儀式などを取り入れた内容になっているということです。

■参考資料
末法思想を見直し平安漢学に光を当てる 森新之介 助教 (2017年2月当時)

末法思想の日本的展開

和歌山県立博物館 熊野信仰とは何か

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/39/view/10978

明治4 年(1871)の神宮改革=御師廃止を経て、伊勢参宮を支えた組織(講)、ネットワークが如何に持続、変容したのか




   

戦国期島津氏における洒食饗応儀礼 ー「式三献」と「かわらけ」一
Powered by Blogger.