初詣・神前結婚式・七五三参りは、明治以降に「創りだされた伝統」ということについて その1 初詣

 日本の神さま関連については、いろいろな肩書き・立場の人が、いろいろなことを語りがちです。
 それはそれでいいのですが、ちゃんとした論文はないものかと調べる中で、京都大学人文科学研究所の高木博志教授がヒットしました。

 私の問題意識は、初詣・神前結婚式・七五三参りといった国民的といえる神道儀礼が、明治後期以降、あるいは二〇世紀になって、国民国家形成とともに「創りだされた伝統」であることの検証にある。神道儀礼の中でも、とりわけここでは、近世の正月の過ごし方が近代になっていかに変容するかに留意しつつ、「初詣の成立」をテーマとしたい。

 なお、京都大学学術情報リポジトリ (KURENAI) で『近代天皇制の文化史的研究』は公開されています。

 正確な情報は高木教授の文章を実際に読んでもらうとして、素人の『クラナリ』編集人なりにまとめてみます。
photo/ぱくたそ




 日本の神さま関連が大きく変化したのは、明治維新。
 学校の教科書にも書いてあったように、1840年のアヘン戦争で清(中国)が植民地化されて、1853年にアメリカのペリー率いる艦隊(黒船)が浦賀に来航して日本に開国を求め、「江戸幕府のままではいけない」「日本も植民地化されるのでは」と、急進的に近代国家化を進めたものです。
明治政府は神道の国教化政策を行うため、明治元年(1868)3月から、神社から仏教的な要素を排除しようとしました。これが「神仏分離」政策です。掲載資料は、3月28日に発せられた「神仏判然令」と言われるものを「太政類典」という資料に採録したものです。神名に仏教的な用語を用いている神社の書上げ、仏像を神体としている神社は仏像を取り払うこと、本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどを命じました。
ペリー(photo/メトロポリタン美術館


  欧米の列強に負けないように、国のシステムを再構築し、国民の一体化を目指すために、「国民国家が上から強制」する形で「創りだされた伝統」の一つが"日本古来の神道"という国家神道だったようです。

 ここで柳田は、「明治以来の祝祭日」が「国民の感覚」と乖離していたとし、国民国家が上から強制する祝祭日という画一的規範を、敗戦直後に批判するとともに、正月元日の過ごし方が、近代に都市からはじまったとする。

 上の「柳田」とは民俗学者の柳田国男で、「敗戦」については第二次世界大戦(1939年9月1日~1945年9月2日)を指していると考えられます。

 本来、家にこもり家族で静かに祝う正月が、近代の都市の形成とともに、外に出て訪問する正月になったとの認識である。
 こうした柳田国男の認識を、歴史学から裏づけたいと思う。

矢部がいうのは、宮中の四方拝という神道儀礼を、国家神道下の頂点である伊勢神宮から村の氏神に至る全国の神社体系において、国民の一人ひとりが、「その大御手振りのまにまに」、真似て成立するのが初詣という図式である。

 上の「矢部」とは矢部善三で、著作物は多いものの、どういった人物かは不明でした。
 高木教授は、数多くの文献に当たり、次のように述べています。ちなみに「歳徳神」は「としとくじん」と読み、「年神」とも呼ばれています。

民俗学などの文献によると、江戸の正月元日には、確かに毎年異なる方角である恵方(吉方)へと参詣する恵方参りもあったが、家にこもって、やってくる歳徳神を、家の年棚で迎えるのが基本であった。農村部でも、歳徳神を迎える年神祭りが中心で、正月三が日は家の中で休息する習慣もあった。

したがって、東京の場合、江戸以来の恵方参りが、近代になって爆発的に拡大し、正月元日の初詣へと再編されていったと考えられる。

つまるところ、官が上から、宮中儀礼と連動させて、正月元日に特別の意味をもたせたかったからといえよう。

 正月の過ごし方の変化をまとめると、次のとおりになります。

江戸時代まで 家の中で静かに過ごして恵方から来る歳徳神を迎える、十日戎(近畿以西で1月10日に行われる行事)・初卯(一月最初の卯の日に、商売繁盛や開運出世などを願って参詣すること)・初寅といった参詣が盛ん
明治20年代 宮中の新年拝賀と連動して民衆も官公庁や学校に出向くようになった、年賀状が普及した
明治30年代 正月三が日に恵方に向かって社寺参りする
大正 恵方とは関係なく社寺参りする、鉄道会社が盛んに恵方詣の宣伝をし広告を打った(福袋プレゼントなど)、初詣は現世利益をもたらすもの、娯楽として捉えられるようになった

「初詣」という言葉が登場したのは、1885年1月2日に出た「東京日日新聞」の記事という説もあります。
新橋横浜間の汽車ハ急行列車の分ハ平生ハ川崎駅へ停車せざれど、昨日より三ヶ日ハ川崎大師へ初詣の人も多かるべきなれば、夫等の便利のために特に停車せらるゝこととなりしとぞ
 詳細は、 以下を参照。
初詣は、バレンタインデーのチョコと同様、商業的に成立した行事だった
https://life-livelihood.blogspot.com/2020/12/blog-post_29.html


 こうした正月の過ごし方について、日本の民族学者で、東京大学名誉教授である大林 太良(おおばやし たりょう)博士は、著書『正月の来た道: 日本と中国の新春行事』(小学館)で次のように述べていました。
 しかし、一見さかんなようにみえるこれらの年中行事にも、明治以来、ことに第二次世界大戦以降、大きな変化が生じている。その一つは、行事の全国化と統一化である。
 もう一つの変化は、年中行事が形式化し、内容が失われていく過程である。(中略)その土地、その土地で長い年月の間に育てられ、伝えられてきた行事とその内容が、統一化されてくれば、当然空疎にもなってくる。(中略)これはまた年中行事の企業化とも関連している。広告やカタログでお正月の料理も決まり、有名社寺に集中していく傾向は顕著である。

 「これらの年中行事」とは、正月や盆、ひな祭り、七五三などを指しています。
 この本については、"日本古来の神道"とは何かを考える材料がたくさん書かれています。
私の考えによれば、新年をことほぐことの基礎には、生命の更新という観念があり、それはある意味では、広く世界的にもみられるものであるが、具体的な行事においては、ことに東アジアの諸文化、つまり日本や中国、朝鮮半島などの文化に著しい共通性がみられるのである。
 このような東アジア世界における中国的な年中行事体系の波及は、朝鮮やベトナムばかりでなく、日本にも及んでいた。そして、それは歴史的には古代に遡る。
 この最後の点、(「何らか骨になり根になるものがその日に近い頃に行われていたことがしでもあり、それが大陸伝来の行事と習合して、日取りも若干移動して整えられたに過ぎないとみられる」『年中行事』和歌森太郎)つまり一見中国起源と思われる節日でも、それを受け止めた土着の行事があったろうという考えは重要である。
 
 日本各地にもともと存在していた伝統である「土着の行事」と、中国や朝鮮半島、東南アジアから入ってきた行事が結びつき、その結果として後世に残ったのが神道で、残る過程でもさまざまな考えなどと融合してきたのではないでしょうか。
 『正月の来た道: 日本と中国の新春行事』では、「若水」について言及されていました。

 新年にあたって、生命を新たにするための方法の一つは、生命の水、豊穣の水を汲んできて、これを摂取することである。日本の若水(わかみず)はその代表的な例である。
 西行の歌に
 解けそむる 初若水の けしきにて 春立つことの くまれぬるかな
とあり、一茶の「おらが春」に
 名代(みょうだい)に 若水あびる 烏かな
と詠まれているように、日本の若水習俗は、我われ日本人にとってはおなじみのものである。
また中国では新年の若水は決して一般的な行事ではない。中国では若水を汲むどころか、『歳時通考』に、「元旦地を掃かず、水を汲まず、火を乞はず」とあり、また『崑新合志』に「是(こ)の日地を掃き、火を乞ひ、水を汲み、および針剪(しんせん)する事を禁ず」とあるように、水を汲まないのがふつうなのである。(中略)井戸には蓋(ふた)をして封井(ふうせい)の式を行う。(中略)
 この封井の行事は、唐代から民国年間までの漢族の行事として行われてきた貯神水と同類である。

 「元旦地を掃かず、水を汲まず、火を乞はず」というのは、「斎籠(いごもり、忌籠)」と通じます。日本国語大辞典では「けがれに触れないように物忌みをして家内に閉じこもること。特に、各地の神事で、正月の亥(い)の日から巳(み)の日までの間、家内にこもって祭りを待つ習俗」と説明されています。

 また、「年ごもり」という風習もあったようです。日本国語大辞典では「大晦日の夜、神社や寺にこもって新年を迎えること」とあり、「こもる」つまりは外出しないということを指していたのではないでしょうか。

・平安中期作の『後拾遺和歌集』(春上・六・詞書)、室町期編集の『義経記』(七・大津次郎の事)に「年ごもり」の語句を確認できた。
  後拾遺和歌集(1086)春上・六・詞書「年ごもりに山寺に侍りけるに」
  義経記(室町中ごろか)七・大津次郎の事「羽黒山伏の熊野に年ごもりして下向し候」

また大晦日の夜は眠らずに過ごすべきとされ,もし禁を破れば白髪になるとかしわがふえるという伝承があるのは,この夜が,訪れた年神に侍座すべきときと考えられていたからである。これら各家の作法とは異なって,ムラ人が神社に年籠りして夜を明かす例もあるが,すでに多くは元旦の未明に参詣するように変わってしまっている。年越しには火を欠かせないとする考えもあり,境内で火をたいて新年を迎える神社は多い。
株式会社平凡社 世界大百科事典(旧版)
 

 ただ「新年の若水は決して一般的」ではないものの、中国の水稲耕作文化では見られる行事だったとのこと。
それ(若水汲み)が中国に由来し、朝鮮半島を経由しないで日本に入ったとみるのが自然であろう。
 結局、現在の私の考えでは、若水汲みの行事は、生命の水の観念を基礎にして、中国高文化における新年(あるいは立春)の表象の影響下に、長江流域およびその南の水稲耕作文化において発生し、発達したものである。



■参考文献
『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』(編/西川長夫、松宮秀治 新曜社)
『日本の歳時伝承』(著/小川直之 アーツアンドクラフツ)

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