道はどうやってできるのだろうか問題 ~大町梨街道と大町の成り立ち その2(市川街歩きの会の皆様ありがとうversion)

  明治初期に作成された迅速測図(図に明治13年という記載あり)には、現在の大町梨街道のところに「透(?)東(?)嵜(?)新田道」「至八自木下」と書かれていることは、前回(道はどうやってできるのだろうか問題 ~大町梨街道と大町の成り立ち その2)で紹介しました。
右がAIで鮮明にしたもの

 何と書かれているのかをどうしても解明したくて、facebookグループ「市川街歩きの会」に投稿させていただいたところ、3つの可能性が見出されました。市川街歩きの会の甲斐さん、鳴瀬さん、そして会長の原田さん、ありがとうございます!

可能性1 「還 串崎新田道」

可能性2 「通 東京新田道」

可能性3 「通 串崎新田道」

 可能性1・3の「串崎新田」は松戸市の地名です。Googleマップで検索したところ、飛び地になっています(赤線で囲まれた3カ所)。
 迅速測図にも、「串崎村」の記載があります。

 迅速測図では、複数の地図がつぎはぎされています。そのため、「串崎村」と表記した人と、「串嵜新田」と表記した人とがいたという推測もできます。

 Wikipediaには、「串崎新田は江戸時代の1730年(享保15年)に小金牧付代官であった小宮山杢進の検知高入れによって中野牧に成立した新田」と書かれていました。
 大町新田の開発は1670(寛文10)年なので、大町新田開発の60年後に串崎新田が成立したことになります。時期としては非常に近いといえます。

 可能性1 「還 串崎新田道」については、「串崎新田を一回りする道」という意味になりそうです。
 可能性3 「通 串崎新田道」だと、「串崎新田を通る道」あるいは「串崎新田に通じる道」でしょうか。

 可能性2の「東京新田」は、以下の引用に登場します。

1869(明治2)年、明治新政府は牧を廃止し、移住者を募り開墾入植させる計画を立て、「三井組」「小野組」などの豪商に開墾会社を設立させた。開墾地の地名は入植順に、初富・二和・三咲・豊四季(とよしき)・五香・六実・七栄・八街・九美上・十倉・十余一・十余二(とよふた)・十余三と命名された。この開墾地は「東京新田」とも呼ばれ、五香と六実(旧「中野牧」の一部)が現在の松戸市域内に位置している。


 3つの可能性に共通するのは、現在の大町梨街道のところに「透(?)東(?)嵜(?)新田道」と書かれていても、これは道の名前を示すものではなかったということ。
 国道464号線は、明治の初めでは“名もなき道”だったと考えられます。

 全然関係のない話ですが、迅速測図を見ていると松戸市や鎌ヶ谷市で茶が栽培されていたのだとわかりました。
 明治→大正→昭和→平成→令和という時代の移り変わりを、古い地図を見ると実感します。

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