消滅した八幡駅と、今も現役の大正生まれの架線柱


 ボーッと線路脇の道を歩いていたら気づかないのですが、八幡5丁目の線路の横にコンクリートの柱があります。

 これは電車に電力を供給する架線を支える「架線柱(かせんちゅう)」。
 なんと、京成電鉄には大正時代の架線柱が、令和の今も使用されているようです。

 架線柱に取り付けられたプレートを見ると……
T~!
コント「Tを探そう」ではありませんが「押321」の下に「T13.6」

 これは大正を示していて、写真の架線柱は大正13年(1924年)6月のものということになるのだそうです。
 人間でいえば95歳。そして現役。素晴らしいことです。

 京成八幡駅の方向へ少し進むと、足元に京成電鉄の社紋。
高さ10センチ程度

 ウィキペディアには、以下のように書かれていました。
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社紋は1909年(明治42年)の会社創立とともに初代社長となる本多貞次郎によって考案された。京成の「京」を円形に図案化し、チームワークの重要性や路線延長の将来性を象徴したものである。1964年(昭和39年)改正の新社紋は旧社紋の基本的な図形を踏襲しているが、線をより太くすることで力強い印象を与えている。
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 そんな社紋がついているのは、境界を示す標識です。注意していないと見落とします。

 さらに京成八幡駅の方向へ進むと、葛飾八幡宮の参道と交差。ここに京成電鉄の「八幡駅」があったのだそうです。現在の京成八幡駅が「新八幡駅」として開業してこの駅が「旧八幡駅」と名前が変わった後、1942年に廃止されたとのこと。
遮断機のバーが置いてあるところに、ホームがあったと推測

 すでに駅があるのに、徒歩3分もかからない場所に駅を開業するとは、なにか事情があったのか……などと、「魁ジェラート」のネギのジェラートを味見させてもらいながら考えていました。
吉田さん、ごちそうさまです!


 明治の「欧米に追いつけ追い越せ」時代に京成電鉄(当時は「京成電気軌道株式会社」)が設立されました。満州事変や日中戦争、太平洋戦争などを経て、戦後の高度成長には都市化が進み、人口が増えて、京成電鉄もそれに対応するように発展したのではないでしょうか。
 人口減少が進むこれからは、鉄道会社は「正確な時間で、一度にたくさんに人と貨物を運ぶ」こととは違った形で、事業を展開していくのかもしれません。
 旧八幡駅の跡地も再開発される可能性が十分ありますね。
 
 
※この記事の内容は、市川街歩きの会 第5回市川街歩き(原木中山・八幡編)で、ガイドの伊藤達夫さんが教えてくれた内容をまとめたものです。伊藤さん、ありがとうございます!
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